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'''道信'''(どうしん, [[580年]] - [[651年]])は、[[禅宗]]の第四祖。[[蘄州]](きしゅう)を中心として布教に励み、弟子の五祖[[弘忍]]と共に「'''[[東山法門]]'''」と呼ばれる一大勢力を築き、後の禅宗の母胎を形成する。
 
姓は司馬、『[[景徳傳燈録]]』など後世の資料では河内([[河南省]])の出身とされることになるが、『続高僧伝』では出身地は不詳であるという
 
== 略歴 ==
7歳で仏門に入り、その後、カン(山に完)公山([[安徽省]])の二僧について10年間修禅した。二僧は、羅浮山([[広東省]])に去り、道信は付き従うことを望んだが、許されなかった。
7歳で出家、仏門に入り沙弥十戒を授戒、[[沙弥]](しゃみ、シュラーマネーラ)となる。その後、[[開皇]]12年([[592年]])、([[数え年]]で)14歳の時に [[安徽省]]の[[皖公山]]に僧璨を訪ねる。一対一で九年間修禅した。
 
第二祖[[慧可]]は、[[開皇]]13年まで生きていたことから、慧可の入滅とほとんど 入れ替わるように師弟関係が始まり、マンツーマンの教導がなされたことがわかる。
その後、出家して吉州([[江西省]])の寺に籍を置いた。その後、南岳[[衡山]]([[湖南省]])へ行こうとしたが、道中で道俗に止められ、[[廬山]](江西省)の大林寺に入った。
 
その後、吉州([[江西省]])の寺に身を置き受戒、時機成熟し以後、僧璨 は 道信に [[衣法]]。
(伝法の信を表す袈裟を与える事。禅では、師匠が弟子に対し、法を伝えた証に衣を授ける。伝衣は同時に伝法でもあることを意味する。)
 
その時読んだ、偈は次の如きものであったことを今に伝える。「花の種、これ田地 田畑にて 瑞々しい若花を大地より生ずる。もし、種を蒔く者がいなければ、花々に満ちていた大地は (これから)生じることもなく尽きてしまう。(仏法もまた同じで、いまこそ 法をひろめなけえばならない。)」
 
その後、出家して吉州([[江西省]])布教寺に籍を置い。その後、南岳[[衡山]]([[湖南省]])へ行こうとしたが、道中で道俗に止められ、[[廬山]](江西省)の大林寺に入った。
 
[[624年]]に、蘄州([[湖北省]])黄梅県の双峰山に入り、その後30年間、衆徒を訓導し、651年に72歳で没したとされる。
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== 伝記 ==
* 『[[続高僧伝]]』卷21「唐蕲州双峰山釈道信伝」“又有二僧 莫知何来 入舒州皖公山静修禅业 闻而往赴 便蒙受法”
* 『[[続高僧伝]]』巻26「蘄州双峯寺釈道信伝」
* 『[[景徳傳燈録]]』巻4「第三十一祖道信大師」
 
== 関連項目 ==
*[[燈史]] 禅宗史書一覧
 
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