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非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、[[老荘思想]]に没頭した。気心の知れた少数の人々と、[[清談]]と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めず、友人の[[山濤]]が自分の後任に、嵆康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『[[文選 (書物)|文選]]』所収)を書いて彼との絶交を申し渡し、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前に、息子の嵆紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものである。
 
ある時、親友の[[呂安]]が嵆康を訪ねた。あいにく嵆康は留守だったが、嵆康の兄の嵆喜(嵆紹の後を継いだ[[ケイ翰|嵆翰]]の曾祖父)がいたので、彼は呂安を招き寄せた。しかし呂安はそれを断り、門戸の上に「鳳」と記して立ち去った。実はこれは「凡鳥」の意味で、嵆喜ははじめはその意味を知らずに喜んだ。しばらくすると嵆康が帰宅し、呂安の訪問と門戸に記した「鳳」の文字を見て、兄にその意味を説明した。これを聞いた嵆喜は怒り、呂安と諍いを起こした。しかし、嵆康はかえって呂安を弁護した。
後に兄の嵆喜(嵆紹の後を継いだ[[ケイ翰|嵆翰]]の曾祖父)が友人の[[呂安]]と諍いを起こしたとき呂安を弁護したため、予ねてから嵆康の言説を危険視していた[[司馬昭]]の側近・[[鍾会]]の讒言によって死罪となった。
 
この話を聞いた[[鍾会]]は以前から、嵆康とうまくいってなかったので、予ねてから呂安の言説を危険視し[[司馬昭]]にこのことを讒言した。そのため、嵆康は死罪となった。
 
嵆康は「[[古琴|琴]](きん)」を演奏することを好み、あるとき謎の人物から「[[広陵]]散」と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという(『[[世説新語]]』雅量篇より)。「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。