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[[1583年]]または[[1585年]]に病死。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。
 
宗運の晩年は1582年の[[本能寺の変]]に始まり、[[山崎の戦い]]・[[賤ヶ岳の戦い]]と天下人の座が決しようとしていた時期であった。戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、[[矢部]](阿蘇氏本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。
しかし宗運死後の1585年、親英は島津方が築いた[[花の山城]]を攻撃。これが島津軍の反撃を招くことになった。親英は早々に降伏。わずか2歳の阿蘇家当主・[[阿蘇惟光|惟光]]は母親に連れられて逃走し、戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。