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'''一萬田 鑑実'''(いちまだ あきざね、<!--[[天文_(元号)|天文]]2年([[1533年]])-->? - [[天正]]16年([[1588年]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[豊後国|豊後]][[大友氏]]の家臣。[[一萬田氏]]当主。父親不明。[[一萬田鎮実]]、[[一萬田統賢]]の父。兵部大輔。宗慶。[[小牟礼城]]城主。[[鳥屋山城]]城主。
 
宗家が滅ぼされた為、一万田家庶流から[[家督]]を相続する。二老国衆の一一人。[[大友義鎮|大友宗麟]]に仕え、[[天文 (日本)|天文]]19年([[1550年]])の[[菊池義武]]討伐や[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])の[[秋月文種]]討伐に功績があり、武名を挙げた。[[永禄]]11年([[1568年]])に同族の[[高橋鑑種]]が謀反を起こしたときも、宗麟に味方し鑑種討伐に当たる。[[永禄]]12年([[1569年]])毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは息子鎮実、そして[[朽網鑑康]]と共に、[[乃美宗勝]]、[[桂元重]]を撃退した。天正6年([[1578年]])の[[耳川の戦い]]では、殿軍を務めている。それらの功績により、[[加判衆]]となって宗麟の側近として活躍する。天正14年([[1586年]])からの[[島津氏]]との戦い([[豊薩合戦]])でも、一萬田氏一族を含む諸将の寝返りが続出する中で、大友氏方に留まり軍功を挙げた。このように生涯を軍陣で過ごすこと多かった。しかし1588年、突如として[[大友義統]]により自害を命じられて自刃。先の戦いで一族から謀反人(一族の一萬田紹伝らが[[島津氏]]に寝返ったとされる)が出て、その連座で巻き込まれたためだという。