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'''ロバート・セグソ'''('''Robert Seguso''', [[1963年]][[5月1日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ミネソタ州]][[ミネアポリス]]出身の元男子プロ[[テニス]]選手。主に[[1980年代]]後半にかけて、アメリカを代表するダブルスのスペシャリストとして活動し、とりわけ同じ年の[[ケン・フラック]]とのコンビで多くの好成績を出した。[[1988年]]の[[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]で[[オリンピックテニス競技]]が復活した時の、最初の男子ダブルス金メダル獲得もある。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス1位。彼は1987年に、[[カナダ]]の女子プロテニス選手である[[カーリン・バセット]]と結婚した。
 
ロバート・セグソと[[ケン・フラック]]は、[[南カリフォルニア大学]]在学中からダブルスのパートナーを組んでいた。2人は[[1983年]]からプロテニス選手となり、直ちに[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアー大会で躍進を開始した。[[1984年]]5月の[[ローマ・マスターズ|イタリアン・オープン]]でツアー初優勝を挙げ、この年に年間6勝を獲得する。[[1985年]]、2人は[[1985年全米オープン (テニス)|全米オープン]]を含む年間8勝を挙げ、ダブルス世界ランキング1位に到達した。全米ダブルス決勝で、セグソとフラックは[[フランス]]ペアの[[ヤニック・ノア]]&[[アンリ・ルコント]]組を 6-7, 7-6, 7-6, 6-0 で破って初優勝した。1985年の8勝には、[[日本]]の[[セイコー・スーパー・テニス]]優勝もある。ダブルスで頂点に到達した年、セグソは[[1985年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でシングルス4回戦に進み、ここで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]シングルスの自己最高成績を出した。
 
ところが、セグソは[[1986年]]夏に膝の手術を受け、8月中旬から同年末まで戦線離脱を余儀なくされた。[[1987年]]の[[1987年全仏オープンテニス|全仏オープン]]には、パートナーのフラックが出場できず、セグソは[[スウェーデン]]の[[アンダース・ヤリード]]とペアを組み、このコンビで4大大会ダブルス2勝目を挙げた。全仏ダブルス決勝の相手は、地元[[フランス]]ペアの[[ヤニック・ノア]]&[[ギー・フォルジェ]]組であった。続く[[1987年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でセグソとフラックのペアは本格的に復活し、決勝で[[スペイン]]ペアの[[エミリオ・サンチェス]]&[[セルヒオ・カサル]]組に 3-6, 6-7, 7-6, 6-1, 6-4 で競り勝ってウィンブルドン初優勝を決めた。[[1987年全米オープン (テニス)|全米オープン]]男子ダブルス決勝では、セグソ&フラック組はスウェーデンペアのヤリード&[[ステファン・エドベリ]]組に 6-7, 2-6, 6-4, 7-5, 6-7 で敗れ、セグソは4大大会男子ダブルス3連覇を逃した。全米オープン終了後、ロバート・セグソは[[カナダ]]の[[カーリン・バセット]]と結婚した。
 
[[1988年]]、セグソとフラックは[[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルス2連覇を達成し、[[ソウルオリンピックにおけるテニス競技|ソウル五輪]]の男子ダブルス金メダルも獲得した。[[オリンピックテニス競技]]は、[[1926年]]に世界初のプロテニス選手が登場したことから、[[アムステルダムオリンピック|1928年アムステルダム五輪]]以後は公式種目から除外されてきたが、このソウル五輪でオリンピックにプロテニス選手の出場を認めることが決定した。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。その記念すべき大会で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]代表選手のロバート・セグソとケン・フラックは、決勝で[[スペイン]]代表の[[エミリオ・サンチェス]]&[[セルヒオ・カサル]]組を 6-3, 6-4, 6-7, 6-7, 9-7 の激戦の末に破り、オリンピックテニスにおける男子ダブルス「復活金メダル」の第1号ペアになった。
 
[[1989年]]、セグソとフラックは[[1989年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルス準決勝で[[アンダース・ヤリード]]&[[ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)|ジョン・フィッツジェラルド]]([[オーストラリア]])組に 6-4, 2-6, 2-6, 3-6 で敗れ、ウィンブルドン3連覇を逃した。同年の[[1989年全米オープン (テニス)|全米オープン]]決勝で[[ジョン・マッケンロー]]&[[マーク・ウッドフォード]](オーストラリア)組に 4-6, 6-4, 3-6, 3-6 で敗れた準優勝が、このコンビの最後の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]決勝戦になる。[[1991年]]8月の[[インディアナポリス]]大会が、セグソ&フラック組の最後のツアー優勝になった。セグソは現役生活最後の5年間、[[1992年]]から[[1996年]]までは断続的にツアーへ出場した。
 
ロバート・セグソは[[1985年]]から[[1991年]]まで、7年間男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手を務めた。団体戦でも、彼の出場試合はすべてケン・フラックとのダブルス戦で、通算成績は10勝2敗であった。
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* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] 男子ダブルス:1勝(1985年) [同部門準優勝:1987年・1989年]
* オリンピック [[ソウルオリンピックにおけるテニス競技|1988年ソウル五輪]]・男子ダブルス金メダル
 
== 外部リンク ==
* {{ATP|id=S034|name=ロバート・セグソ}}
* {{Davis Cup|10001258|ロバート・セグソ}}
* [http://www.daviscup.com/en/players/player/profile.aspx?playerid=10001258 デビスカップ成績表]
* {{ITF|m|10001258|ロバート・セグソ}}
 
== 参考文献 ==
* ''ITF World of Tennis 1989'' (ワールド・オブ・テニス 1989) Willow Books Collins, London (1989) ISBN 0-00-218311-0 [[国際テニス連盟]]が毎年発刊するテニス年鑑。