「バリンギーン・ツェレンドルジ」の版間の差分

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|place of death = {{MNG}}、[[ウランバートル]]
}}
'''バリンギーン・ツェデンドルジ'''({{Lang-mn|Балингийн Цэрэндорж}}、[[1868年]][[5月2日]] - [[1928年]][[2月13日]])は[[ボグド・ハーン]]政権]]の[[モンゴルの首相|首相]]。満州語、中国語、ロシア語を解した。
 
1911年に清朝滅亡、モンゴル地域の指導者たちは自分たちの国の独立を宣言し、[[ボグドハーン|ジェプツンダンバ・ホトクト8世]](ボグド・ハーン)の宗教的リーダーシップの下で自治モンゴルとして知られている国家を樹立した。 モンゴル外務省で勤務し、[[1913年]]、外務次官に任命された。その後まもなく、彼は外務大臣となり、東アジアにおけるロシア中国との国境を求めて中国の共和国との間の8ヶ月間の[[キャフタ条約 (1915年)ボグド・ハーン政権|キャフタ条約]]会議にモンゴル代表団の一員として参加する。しかし、最終的に際的承認は得られず、ロシア、中国、モ(ボグド・ハーゴル、中国内の自治区であることに合意したときに裏切られた。政権
)]]を樹立した。
 
バリンギーンはモンゴル外務省で勤務し、[[1913年]]に外務次官に任命された。その後まもなく外務大臣となり、ボグド・ハーン政権の地位の取り扱いについて話し合う[[キャフタ条約 (1915年)|キャフタ条約]]会議にモンゴル代表団の一員として参加する。しかし、最終的に国際的承認は得られなかった。
 
 
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{{Succession box
| title = [[Image:Flag of Mongolia (1911).svg|25px]] [[モンゴルの首相|モンゴル国首相]]
| years = 第6代:1923 - 1928
| before = {{仮リンク|ジャルハンザ・ホトクト・ダムディンバザル|en|Jalkhanz Khutagt Sodnomyn Damdinbazar}}
| after = [[アナンディーン・アマル]]
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