「上村吉彌 (5代目)」の版間の差分

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明治42年 (1909) [[大分県]][[杵築市]]生まれ。3歳のころから当地の歌舞伎に子役で出演し、大正8年 (1919) には中村桂之助を名乗って福岡大博劇場に出る。各地の小芝居を勤めたのち、昭和8年 (1933) に[[市川右團次 (2代目)|二代目市川右團次]]に入門、市川右升を名乗る。昭和19年 (1944) 以降は[[松竹]]専属となり、美貌の[[女形]]として知られるようになる。特に 『[[壇浦兜軍記]]』の阿古屋を得意とし、連日の大入りをとったところから「阿古屋の右升」とまで呼ばれるほどの人気役者となった。
 
昭和22年 (1947)、[[歌舞伎座]]で[[元禄]]以来絶えていた[[名跡]]「[[上村吉彌]]」を五代目として襲名。以後関西を中心に活動し、[[七人の会]]や[[仁左衛門歌舞伎]]では脇をかためる重要な役割を担った。[[1974年]]、[[京都]][[南座]]で[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三世片岡仁左衛門]]の『[[堀川波鼓近頃河原達引]]』で母おぎんを勤めた後は、特に老女役が多くなり、上品で渋みのある芸で知られた。なかでも『[[仮名手本忠臣蔵]]』のおかや、『[[攝州合邦辻]]』の老母おとくは一代の傑作である。
 
[[1989年]]、日本芸能実演家団体協議会より功労者として表彰される。同年[[勲五等]][[双光旭日章]]受章。杵築市で上村吉弥帰郷歓迎会が行われる。以降、脇に手利きがすくなくなった歌舞伎界でその至芸は重んじられ舞台に立ちつづけたが、[[肺癌]]のため[[京都]]で死去。享年82。臨終に際しても舞台が忘れられず、「さあ、出番や。早よせんかい。」とうわ言を言ったのが最期であったという。