「蒲生秀行 (刑部大輔)」の版間の差分

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{{Otheruses|[[蒲生貞秀]]の長男|[[会津藩]]初代藩主|蒲生秀行 (侍従)}}
'''蒲生 秀行'''(がもう ひでゆき、生年不詳 - [[永正]]10年([[1513年]]))は[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期にかけての[[武将]]。[[蒲生貞秀]]の長男。[[蒲生高郷|高郷]]、[[音羽秀順]]、小倉兵庫亮室らの兄。[[蒲生秀紀|秀紀]]の父。官位は[[刑部省|刑部大輔]]、通称は藤太郎。[[蒲生氏]]15代当主。
 
出家した父貞秀から家督を譲られ、蒲生氏の名籍を継ぐ(貞秀の出家の時期については諸説あり)<ref>『蒲生系図』によれば52歳の時に出家したとあるので[[明応]]4年([[1495年]])という事になるが、他にも45歳説、57歳説などがあり、年代に関しても記述が一定しない。</ref>。出家後も貞秀の影響力は依然として強く、秀行の行動に関する史料は乏しいが、[[六角高頼]]に出仕した弟の高郷に比べれば貞秀・秀行父子は[[六角氏]]とは距離を置いており、偏諱や婚姻関係などは見られない
==生涯==
出家した父貞秀から家督を譲られ、蒲生氏の名籍を継ぐ(貞秀の出家の時期については諸説あり)<ref>『蒲生系図』によれば52歳の時に出家したとあるので[[明応]]4年([[1495年]])という事になるが、他にも45歳説、57歳説などがあり、年代に関しても記述が一定しない。</ref>。
 
[[室町幕府]][[奉公衆]]のような働きもしていたようで永正7年([[1510年]])には復権した10代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙]]の要請を受けて、先の将軍である[[足利義澄]]を匿った[[九里信隆]]の守る[[水茎岡山城]]攻めに幕府軍として参加している。永正10年([[1513(1513]])に死去。法名は宗拾。
出家後も貞秀の影響力は依然として強く、秀行の行動に関する史料は乏しいが[[六角高頼]]に出仕した弟の高郷に比べれば貞秀・秀行親子は[[六角氏]]とは距離を置いており、偏諱や婚姻関係などは見られない。
 
秀行の死後、弟の高郷が蒲生氏の家督相続を望んだが、存命していた父貞秀の意向で秀行の長男である秀紀が継ぐことに決定した。しかしながら高郷は家督を諦めておらず、後に[[六角定頼]]の支援を背景に秀紀を攻めて降服させ、強制的に自身の息子である[[蒲生定秀]]に家督を移譲させた。またその後に高郷・定秀子はまだ子の居なかった秀紀を[[暗殺]]し、秀行の娘も僧籍に入れられ、実質的に秀行系の蒲生氏の血は絶えて高郷系が蒲生氏の宗家流に成り代わった。
幕府[[奉公衆]]のような働きもしていたようで永正7年([[1510年]])には復権した10代将軍[[足利義稙]]の要請を受けて、先の将軍である[[足利義澄]]を匿った[[九里信隆]]の守る[[水茎岡山城]]攻めに幕府軍として参加している。永正10年([[1513年]])に死去。法名は宗拾。
 
秀行の死後、弟の高郷が蒲生氏の家督相続を望んだが、存命していた父貞秀の意向で秀行の長男である秀紀が継ぐことに決定した。しかしながら高郷は家督を諦めておらず、後に[[六角定頼]]の支援を背景に秀紀を攻めて降服させ、強制的に自身の息子である[[蒲生定秀]]に家督を移譲させた。またその後に高郷・定秀親子はまだ子の居なかった秀紀を暗殺し、秀行の娘も僧籍に入れられ、実質的に秀行系の蒲生氏の血は絶えて高郷系が蒲生氏の宗家流に成り代わった。
 
== 脚注 ==