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'''葛山 氏元'''(かつらやま うじもと、[[永正]]17年([[1520年]])-[[天正]]元年([[1573年]])?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[駿河国]][[駿東郡]]の[[国衆]]で、[[葛山城]]城主。備中守。養父は[[葛山氏広]]。実父は[[葛山貞氏]]。
 
== 略歴 ==
[[葛山氏]]は駿河国の東部に広域にわたって在地領主制を展開した[[人]][[領主]]で自ら印判状を発給するなどかなりの勢力を有していた。その支配地域が[[今川氏]]の駿河、[[武田氏]]の[[甲斐国|甲斐]]、[[後北条氏|北条氏]]の[[相模国|相模]]の三国の国境沿いに位置していたため、形の上では今川氏に従属していたが、武田氏や北条氏とも関係が深かった。
 
氏元も当初は今川氏に属して勢力を伸ばして葛山氏の全盛を築いたが、永禄後年には同盟関係にあった武田・今川氏の関係が険悪化し、[[永禄]]1211年([[15691568年]])の[[末に武田信玄]]による氏は今川領国への侵攻を行う([[駿河侵攻]]に際して)。氏元これ[[朝比奈信置]]や[[瀬名氏]]らと武田方に内応翌永禄12年2月1日には武田家臣[[穴山信君]]とともに今川氏と同盟関係にあったる相模後北条氏に属すの後援を受けた富士郡の[[富士信忠]]の守る[[大宮城 (駿河国)|大宮城]](富士宮市)[[穴山信君]]と共に攻めている。だが、天正元年(1573年(『静岡県史』資料編8 - 358号頃、北条氏に内通しているとの嫌疑がかけられ信玄に殺害されたとも、自害したとも伝わる
 
氏元は信玄の六男の[[葛山信貞|信貞]]を養子とし家督を譲り、信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、在地支配は[[城代]]の御宿友綱が行っていたと考えられている。天正元年2月末、謀反の嫌疑により信濃国諏訪において処刑されたという(仏眼禅師語録)。
その後、葛山氏は信玄の6男・[[葛山信貞|信貞]]が後を継ぎ、葛山姓を名乗った。
 
[[御宿友綱]](監物)や[[御宿政友]]を輩出した[[御宿氏]]とは同族である。