「アルチーデ・デ・ガスペリ」の版間の差分

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| 画像サイズ = 200px
| 国名 = {{ITA}}
| 職名 = 暫定[[共和国大統領 (イタリア)#国家元首代行|国家元首代行]]
| 就任日 = [[1946年]][[6月12日]]
| 退任日 = [[1946年]][[7月1日]]
<!-- ↓省略可↓ -->
| 国名2 = {{ITA}}
| 代数2 = 第44
| 職名2 = [[イタリアの首相|閣僚評議会議長(首相)]]
| 就任日2 = [[1945年]][[12月10日]]
| 退任日2 = [[1953年]][[8月2日]]
19行目:
| 代数3 =
| 職名3 = 外務大臣
| 就任日3 = [[1944年]][[12月12日]]
| 退任日3 = [[1946年]][[10月10日]]
| 副大統領3 =
| 元首3 =
26行目:
| 代数4 =
| 職名4 = 内務大臣
| 就任日4 = [[1946年]][[7月13日]]
| 退任日4 = [[1947年]][[1月28日]]
| 副大統領4 =
| 元首4 =
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| 代数5 = 第2
| 職名5 = [[欧州議会議長|共同総会議長]]
| 就任日5 = [[1954年]]
| 退任日5 = [[1954年]][[8月19日]]
| 副大統領5 =
| 元首5 =
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}}
 
'''アルチーデ・デ・ガスペリ'''(Alcide De Gasperi, [[1881年]][[4月3日]] - [[1954年]][[8月19日]])は[[イタリア]]の[[政治家]]。[[キリスト教民主主義 (イタリア 1942-1994)|キリスト教民主主義]]の創設者。1945年から1953年にかけて8つの連立政権において[[イタリアの首相|首相]]を務めた。首相在任期間は7年8ヶ月(2496(2496)に及び、これは戦後イタリアにおいて連続在任期間では1位、通算在任期間でも<!--[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]に次ぐ-->第2位であの記録となっている。デ・ガスペリはまた[[フランス]]の[[ロベール・シューマン]]、[[ドイツ]]の[[コンラート・アデナウアー]]らと並んで[[欧州連合]]の父の1人ひとりに数えられている。
 
==生涯来歴==
=== 若年期 ===
デ・ガスペリは当時は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、のちの[[イタリア]]・[[トレント自治県|トレンティーノ]]の[[ピエーヴェ・テジーノ]]に生まれる。父は地元の警察官で、経済的にはあまり豊かではなかった。1896年以降、デ・ガスペリは社会的キリスト教運動に加わる。1900年、デ・ガスペリは[[ウィーン大学]]の文学・哲学部に進み、そこでキリスト教学生運動立ち上げの中心的な役割を果たす。またこのころ、デ・ガスペリは1891年に[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]が発表した[[回勅]]『[[レールム・ノヴァールム]]』に大きな影響を受ける。1904年、デ・ガスペリはあるイタリアの大学を支持する学生デモ活動に積極的に参加していた。[[インスブルック]]においてイタリアの大学の法学部が開設されるさいにデ・ガスペリは20日のあいだ、身柄を拘束されていた。1905年、デ・ガスペリは[[哲学]]の学位を取得した。
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=== アメリカの支援 ===
デ・ガスペリはアメリカから強い支持を受けていた。アメリカはデ・ガスペリが押し寄せる共産主義の波、とくに西ヨーロッパの民主主義国で最大の共産主義政党であるイタリア共産党に対抗することができる人物であると見ていた。1947年、デ・ガスペリはアメリカを訪問する。この訪の最大の目的は停滞していた対イタリア講和条約に盛り込まれる条件の緩和と迅速な経済支援を得ることであった。10日間にわたったデ・ガスペリは10日間滞在訪米メディアに大きな影響力を持っていた[[タイム (雑誌)|タイム誌]]のオーナーである[[ヘンリー・ルース]]と、ルースの妻でのちに駐ローマ大使となる[[クレア・ブース・ルース]]が調整したものであったが、そのためもあってアメリカのメディアから幅広く有利は概ねデ・ガスペリに対して好意的論評もの寄せられたことから目立ち、この滞在はメディアでの「における勝利がこの訪米の成功のカギ捉えられているなった<ref>{{Cite |last=White|first=Stephen F.|url=http://www.arts.mun.ca/congrips/newsletter/61%20-%20Fall%202005.pdf|title=De Gasperi through American Eyes: Media and Public Opinion, 1945-53|year=2005|month=October|publisher=Conference Group on Italian Politics and Society|format=PDF|work=Newsletter- Italian Politics and Society No.61 Fall/Winter 2005|pages=pp. 11-20|language=English|accessdate=2009-02-14}}</ref>。
 
アメリカでデ・ガスペリは、財政的には大きく決して巨額といえないが、政治的には大きな意味合いを持つ1億USドルの融資経済支援を確保することができた。デ・ガスペリはこれについて、イタリア世論はこの融資についてイタリ経済支援をメリカのデ・ガスペリに対する信任の表れととらえることになるであろう表明た。また[[冷戦]]という流れ東西分裂した欧州の対立が色濃くなりはじめてた当時にあっ共産党と対決は一線を画るというデ・ガスペリ政権の立場を強調すことにのになると説明している。この協議の有利な結果はイタリア国内さらおけるデ・ガスペリの評価を高めるものとなった。またデ・ガスペリは帰国の際に、アメリカの外交政策が早晩ソビエトの影響を欧州から排除する方向へと転換する<!--[[冷戦]]を主導するものになるような変化がある--><!--POV-->という情報を入手し、これをきっかけするして1947年、帰国後の5月に共産党左派社会党との連立解消に踏み切った。この訪米の成功とその後の政権運営はイタリア国内でもデ・ガスペリの評価を高めることにつながった。
 
=== 1948年の選挙 ===
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<ref>{{Cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,818642,00.html|title=De Gasperi's Fall|date=1953-08-10|publisher=Time|language=English|accessdate=2009-02-14}}</ref>。翌年には党首の座をも明け渡すことになった。
 
その2か月後の1954年8月19日、デ・ガスペリは故郷トレンティーノの[[セッラ・ディ・ヴァルスガーナ]]でその生涯を閉じ終えた。遺体はローマの[[サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]に葬られた。その後1993年にデ・ガスペリの[[列福]]の手続きが開始された<ref>{{Cite web|last=Maurizi|first=Pietrino|date=2005-06-03|url=http://www.santiebeati.it/dettaglio/92035|title=Servo di Dio Alcide De Gasperi|language=Italian|publisher=Santi beati|accessdate=2009-02-14}}</ref>。
 
デ・ガスペリに秘書として仕え、のちに首相となった[[ジュリオ・アンドレオッティ]]はデ・ガスペリについて「泥沼となるような闘争を嫌っていた。彼は私たちに妥協点を模索することや調停することを教えてくれた」と述べている<ref>{{Cite web|last=Stille|first=Alexander|url=http://www.bunker8.pwp.blueyonder.co.uk/orgcrim/andriotti.htm|title=All the Prime Minister's Men|date=1995-09-24|language=English|publisher=The Independent|accessdate=2009-02-14}}</ref>。
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1952年、デ・ガスペリは[[ドイツ]]の[[アーヘン|アーヘン市]]がヨーロッパの理念と平和に貢献した人物に贈る[[カール大帝賞]]を授与された。
 
== 注 ==
{{Reflist}}
{{refbegin}}
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{{s-off}}
{{Succession box
| title = イタリア王国の外相
| years = 1944年12月12日 - 1946年10月18日
| before = [[イヴァノエ・ボノーミ]]
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}}
{{Succession box
| title = [[イタリアの首相|イタリア王国閣僚評議会議長の首相]]
| years = 1945年12月10日 - 1946年6月10日
| before = [[フェルッチョ・パッリ]]
| after = ''王政廃止''
}}
{{Succession box
| title = [[共和国大統領 (イタリア)#国家元首代行|イタリア国家元首代行]]
| years = 1946年6月12日 - 1946年7月1日<br /><small>'''暫定国家元首代行'''</small>
| before = [[ウンベルト2世]]<br /><small>[[イタリア君主一覧#イタリア王国|イタリア国王]]</small>
| after = [[エンリコ・デ・ニコラ]]<br /><small>暫定国家元首(のち共和国大統領</small>
}}
{{Succession box
| title = [[イタリアの首相|イタリア共和国閣僚評議会議長の首相]]
| years = 1946年6月10日 - 1953年8月17日
| before = ''共和政樹立''
| after = [[ジュゼッペ・ペッラ]]
}}
{{Succession box
| title = イタリア共和国の内相
| years = 1946年6月13日 - 1947年1月28日<br />{{smaller|兼務}}
| before = [[ジュゼッペ・ロミータ]]
| after = [[マリオ・シェルバ]]