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[[ファイル:Palazzo del monte RE.jpg|thumb|255px|ドゥオモ広場にあるデルモンテ宮殿、クロストーロ川の噴水]]
12世紀と13世紀は、スコピアッツァティ家とマッツァペリーニ家の対立、後にはルッジェリ家とマラグッツィ家の対立で、街頭で対立に直面する、内部抗争で苦悩する時代であった。1152年、レッジョはパルマと戦闘状態となり、1225年にはモデナと戦争した。これらはイタリアでの[[教皇派と皇帝派|ゲルフとギベリン]]の戦いの過程であった。1260年、25,000人の悔悟者が、[[ペルージャ]]の隠者に率いられてレッジョへ入った。この事件はしばらく状況を平穏にし、信仰熱の大きな繁栄を刺激した。しかしすぐ再度議論が蘇り、1265年にはギベリン(皇帝派)がゲルフ(教皇派)の首領カコ・ダ・レッジョを殺害し、市で優勢となった。反司教抗争が続き、2つの新たな派閥インフェリオーリとスペリオーリがつくられた。最終的に勝ったのはスペリオーリであった。
 
そういった相次ぐ戦争の中で、1175年にはヨーロッパで最古の大学の一つ、[[モデナ・レッジョ・エミリア大学]]が創立されている(教皇領への併合の後に閉鎖)。
 
セッシ家、フォリアーニ家、カノッサ家といった強力な名家の悪用の裏をかき、レッジョの行政長官は市の統治権を3年間[[エステ家]]の[[オビッツォ・デステ]]へ与えた。この選択は、将来レッジョがエステ家の[[シニョリーア]]制のもとに置かれる布石となり、オビッツォは委任統治の期限が終了した後事実上の支配を続けた。オビッツォの子アッツォは、1306年にレッジョ市民によって追放され、800人の一般市民によって治められる共和国がつくられた。1310年、皇帝[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]は代理人として[[スピネット・マラテスタ]]侯を押しつけたが、彼はすぐに追放された。共和国は、[[枢機卿]][[ベルトランド・デル・ポッジェット]]がレッジョを[[教皇領]]へ併合したことから1326年に消滅した。