「ユーリー・ラストヴォロフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
元諜報員 (会話 | 投稿記録)
Euler2011 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
2行目:
 
== 経歴 ==
[[クルスク州]]ドミトリエフカ町出身。父は[[赤軍]]の将校で、母は医師だった。軍人の家庭に育ったため、幼い頃から国中を回った。父方の祖父は富農であった。この為、父方の祖父は革命後、迫害を受け、悲惨な死を遂げたと言われている。(この祖父の運命が、ラストボロフのアメリカ亡命の遠因だったとする見方がある。(三宅正樹))
 
[[独ソ戦]]勃発後、当時[[モスクワ]]のタガンスキー地区政治委員だった父の陳情で、前線ではなく、[[内務人民委員部]](NKVD)に入り、特殊学校で日本語を学んだ。日本語を学ぶのは嫌だったが、祖父の事があり、指示に従って学んだと言う
 
特殊学校卒業後、対外諜報部に入り、[[ソ連対日参戦]]のための諜報情報の収集・分析に従事した。
13行目:
 
== ラストボロフ事件 ==
1950年、ラストヴォロフは、東京に戻り、二等書記官として麻布の駐日大使館に赴任した。日本では、主として[[在日米軍]]に関する情報の収集に従事し、アメリカ軍人が出入りするバー、レストラン、テニス・クラブに通った。目的は、アメリカ人協力者を得る事であったとされるが、このテニスクラブ入りが、皮肉にも、ラストボロフがアメリカ人に接近していると言う疑念を本国に抱かせ、後の亡命の一因になったと言われる。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』参照)
 
1953年3月5日、[[ヨシフ・スターリン]]が死去した。間もなく、内務相の[[ラヴレンチー・ベリヤ]]が逮捕され、国家保安機関内で粛清が始まるとの噂が流れた。