「カンボジアの歴史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: fi:Kambodžan historia
横浜大塚 (会話 | 投稿記録)
m 余分な空欄の削除
54行目:
 
=== クメール共和国(1970年 - 1975年) ===
[[1970年]][[3月17日]]、親米の[[ロン・ノル]]がシハヌークの外遊中に[[クーデター]]を決行し、シハヌーク一派を追放、'''クメール共和国'''の樹立を宣言した(10月9日)。ロン・ノルは政権を取ると、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、[[南ベトナム解放民族戦線]]への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。このためシハヌーク時代に50万人だったベトナム系住民のうち20万人が1970年にベトナムに大量帰還する事態となった。続いてロン・ノルは1970年4月、[[ホーチミン・ルート]]を粉砕するため、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]と南ベトナム軍に自国を侵攻させた。さらに、1968年から局地的に行われてきたアメリカ軍による[[カンボジア空爆]]を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させた。これにより数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃から一年半の間に200万の国内難民が発生した<ref>ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房</ref>。ロン・ノル政権は国民の不人気を買い、反政府活動は激化していった。
[[1970年]][[3月17日]]、親米の[[ロン・ノル]]がシハヌークの外遊中に[[クーデター]]を決行し、シハヌーク一派を追放、'''クメール共和国'''の樹立を宣言した(10月9日)。
ロン・ノルは政権を取ると、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、[[南ベトナム解放民族戦線]]への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。このためシハヌーク時代に50万人だったベトナム系住民のうち20万人が1970年にベトナムに大量帰還する事態となった。続いてロン・ノルは1970年4月、[[ホーチミン・ルート]]を粉砕するため、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]と南ベトナム軍に自国を侵攻させた。さらに、1968年から局地的に行われてきたアメリカ軍による[[カンボジア空爆]]を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させた。これにより数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃から一年半の間に200万の国内難民が発生した<ref>ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房</ref>。ロン・ノル政権は国民の不人気を買い、反政府活動は激化していった。
 
クーデター後、シハヌークは[[中華人民共和国|中国]]([[北京市|北京]])へ脱出し、[[カンプチア民族統一戦線]]を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけた。彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、[[毛沢東]]主義に心酔した[[ポル・ポト]]、[[キュー・サムファン]]、[[イエン・サリ]]らの指揮する[[共産主義]]勢力「[[クメール・ルージュ]]」だった。10月、ポル・ポトはシハヌークを擁立してロン・ノル政権との間で[[内戦]]となった([[カンボジア内戦]]参照)。
70 ⟶ 69行目:
 
[[1975年]]当時、カンボジアの食糧事情は危機的状況にあった。同年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告<ref>井上恭介、藤下超 著「なぜ同胞を殺したのか」p103,日本放送出版協会</ref>し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測<ref>NHK取材班著「激動の河メコン」p32,日本放送出版協会</ref>していた。クメール・ルージュの強制移住・重農政策はこうした状況で食糧増産を図ったものと思われるが、非科学的・非現実的な諸政策により結果的には食糧危機を一層増大・深刻化させる結果となった。
 
 
[[1978年]]1月、[[ベトナム]]領内を攻撃し、ポル・ポトはベトナムと断交した。この頃、ベトナムは[[ソビエト連邦]]との関係を強化しており、'''[[中ソ対立]]'''の構図から、[[中華人民共和国]]と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなった。5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区を攻撃し、東部地区の大量のクメール・ルージュ将兵が処刑された。このため、ベトナムには10数万人にのぼる東部地区軍民の避難民が流入した。
 
93 ⟶ 92行目:
カンボジア和平パリ協定でフン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた四派による'''カンボジア最高国民評議会(SNC)'''が結成された。翌年[[1992年]]3月より、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC。事務総長は[[明石康]])が平和を維持する活動を始めた。
 
[[1993年]]5月には[[国民議会 (カンボジア)|国民議会]]総選挙が行なわれ、[[立憲君主制]]が採択された。選挙結果は、全120議席のうち、[[フンシンペック党]] が58議席、[[カンボジア人民党]]が51議席、ソン・サンの[[仏教自由民主党]]が10議席、その他1議席であった。これにより「二人首相制」となり、フンシンペック党党首でシハヌークの二男 [[ノロドム・ラナリット|ラナリット]]が第一首相、[[カンボジア人民党]]のフン・センが第二首相に選出された。
これにより「二人首相制」となり、フンシンペック党党首でシハヌークの二男 [[ノロドム・ラナリット|ラナリット]]が第一首相、[[カンボジア人民党]]のフン・センが第二首相に選出された。
 
同年[[9月23日]]、制憲議会が新憲法を発布した。[[9月24日]]、シハヌークが国王に再即位、'''カンボジア王国'''が、およそ23年ぶりの統一政権として誕生した。自由で公正な選挙、選ばれた議会の憲法発布・政府設立を見届け、UNTACの暫定統治は[[1993年]]9月に終了した。