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[[Imageファイル:Mecklembourg-Strelitz, Helene.jpg|thumb|right|220px250px|オルレアン公爵夫人エレーヌと息子[[フィリップ (パリ伯)|長男ルイ・フィリップ]]([[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]画、1839年頃、[[ヴェルサイユ宮殿]]所蔵]]
'''ヘレーネ・ルイーゼ・エリーザベト・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン'''([[ドイツ語|独]]:Helene:'''Helene Luise Elisabeth zu MecklemburgMecklenburg''' [-Schwerin], [[1814年]][[1月24日 [[ルートヴィヒスルスト]] - [[1858年]][[5月17日 [[リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区|リッチモンド・アポン・テムズ]]、[[ロンドン]])は、ドイツの[[フラメクレス王国|ブルク=シュヴェリーン]]大公家の公女で、フランス]]王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の世継ぎであった[[オルレアン家|オルレアン公]][[フェルディナン・フィリップ (オルレアン公)|フェルディナン・フィリップ]]の妃。[[フランス語]]名'''エレーヌ・ド・メクランブール=シュウェラン'''(Hélène('''Hélène de Mecklembourg-Schwerin)Schwerin''')
 
== 生涯 ==
[[メクレンブルク=シュヴェリーン大公国|メクレンブルク=シュヴェリーン大公]]世子[[フリードリヒ・ルードヴィヒ・ツー・メクレンブルク|フリードリヒ]]([[1778年]] - [[1819年]])と、2度目の妃カロリーネ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハの長女として、[[シュヴェリーン]]で生まれた。祖父は大公[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]]、異母兄に[[パウル・フリードリヒ (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|パウル・フリードリヒ大公]](フリードリヒと最初の妃[[エレナ・パヴロヴナ (パーヴェル1世皇女)|エレナ・パヴロヴナ]]との長男)。
メクレンブルク=シュヴェリーン大公世子[[フリードリヒ・ルードヴィヒ・ツー・メクレンブルク|フリードリヒ・ルートヴィヒ]]とその2番目の妻でザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公[[カール・アウグスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・アウグスト]]の娘である[[カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|カロリーネ・ルイーゼ]]の間の第2子、長女として、ルートヴィヒスルスト宮殿([[:en:Schloss Ludwigslust|Schloss Ludwigslust]])で生まれた。父にとっては2番目の娘である。幼い頃に両親を相次いで亡くし、父方の祖父であるメクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]]の手許で育てられた。
 
異母兄[[パウル・フリードリヒ (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|パウル・フリードリヒ]]大公の妻[[アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1803-1892)|アレクサンドリーネ]]がプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の娘だった関係で、[[プロイセン王国|プロイセン]]との同盟を模索する[[7月王政]]期のフランス王ルイ・フィリップの長男で王位継承者であるオルレアン公との縁談が持ち上がった。ヘレーネは[[カトリック]]信徒である[[オルレアン家]]とは宗旨の違う[[プロテスタント]]信徒であり、また美しくもなかったが、自由主義的な思想の持ち主だった。ヘレーネ自身、非常に野心的なプリンセスで、家族の反対を押し切ってでも将来のフランス王妃の座を逃すまいとした。
1837年5月10日、[[フォンテーヌブロー]]でフェルディナン・フィリップと結婚。2子をもうけた。
 
*[[フィリップ (パリ伯)|ルイ・フィリップ]]([[1838年]] - [[1894年]]) [[パリ]]伯
1837年5月30日、[[パリ]]郊外の[[フォンテーヌブロー宮殿]]において、オルレアン公と結婚式を挙げた。パリ大司教[[イアサント=ルイ・ド・ケルン]]([[:en:Hyacinthe-Louis de Quélen|Hyacinthe-Louis de Quélen]])が、宗派の違う夫婦の結婚式に[[ノートルダム聖堂]]を使用するのを禁じたため、宮殿を結婚式場に使ったのだった。以後、ヘレーネはオルレアン公爵夫人エレーヌと呼ばれた。姑の[[マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリー・アメリー]]王妃はエレーヌのリベラル傾向やプロテスタント信仰が気に入らず、長男の嫁を嫌った。オルレアン公爵夫妻の夫婦仲は良好で、すぐに2人の息子が生まれ、オルレアン王家の存続も安泰となった。
*[[ロベール・ドルレアン (シャルトル公)|ロベール]]([[1840年]] - [[1910年]]) [[シャルトル]]公
 
==関連項目==
1842年7月13日、オルレアン公が馬車事故により不慮の死を遂げると、ルイ・フィリップ王の後継者には新たにオルレアン公爵夫妻の長男のパリ伯爵[[フィリップ (パリ伯)|フィリップ]]が指名された。パリ伯爵が幼くして祖父から王位を継いだ場合、成人まで摂政が置かれることも定められた。摂政にはパリ伯爵の母親であるエレーヌと、亡きオルレアン公の次弟[[ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)|ヌムール公]]の2人の名前が挙がったが、最終的な決定は下されないままだった。
*[[ヴィクトル・ユゴー]] - 側近
 
{{History-stub}}
1848年の[[1848年のフランス革命|2月革命]]により、ルイ・フィリップはフランス王位を追われた。エレーヌは王制の廃止を避けるため、自ら幼い息子パリ伯爵の摂政となることを宣言し、2人の息子を伴って[[リュクサンブール宮殿]]の[[元老院 (フランス)|元老院]]の議場に入った。エレーヌは長男がフランス王位の相続者であり、その成人まで自らが摂政として国務を執ることをこと主張したが、元老院はこの提案を拒否した。
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[[Category:メクレンブルク=シュヴェリーン家]]
エレーヌは息子たちと一緒にドイツの[[アイゼナハ]]に亡命し、その後も[[オルレアニスム|オルレアン家の復権のための運動]]を続けた。しかしフランス国内の君主制支持者たちは、[[アンリ・ダルトワ|シャンボール伯爵]]を家長とする[[レジティミスム|ブルボン正統王朝の復権]]を支持するようになっていった。
 
1858年、[[インフルエンザ]]に罹患してロンドンの[[リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区|リッチモンド・アポン・テムズ]]において44歳で死去した。遺骸ははじめ[[サリー (イングランド)|サリー州]]のウェイブリッジ([[:en:Weybridge|Weybridge]])に葬られたが、1876年に[[ドルー]]のサン・ルイ王室礼拝堂([[:en:Chapelle royale de Dreux|Chapelle royale de Dreux]])に安置された。
 
== 子女 ==
*[[フィリップ (パリ伯)|ルイ・'''フィリップ'''・アルベール]]([[1838(1838]] - [[1894年]]) [[パリ]]
*[[ロベール・ドルレアン (シャルトル公)|'''ロベール'''・フィリップ・ルイ・ウジェーヌ・フェルディナン]]([[1840(1840]] - [[1910年]]) [[シャルトル]]
 
== 参考文献 ==
* {{fr icon}} Généalogie des rois et des princes, by Jean-Charles Volkmann. Edit Jean-Paul Gisserot (1998)
* {{fr icon}} Les Orléans, une famille en quête d'un trône, by Georges Poisson Perrin (1999)
* {{fr icon}} ''Hélène de Mecklembourg-Schwerin; Madame la duchesse d'Orléans''; New edition. Paris: Michel Lévy (1859)
 
{{DEFAULTSORT:ね めくれんふるく}}
[[Category:フランス復古王政]]
[[Category:フランス王族の妃]]
[[Category:メクレンブルク=シュヴェリーン家]]
[[Category:1814年生]]
[[Category:1858年没]]