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== 生い立ちと前半生 ==
[[ベルゲン]]に生まれる。父ヨハン(Johan Storm Bull)は息子を聖職者にしたがったが、ブルは音楽の道に進むことを望んだ。4~5歳にして、母親が口ずさんだ歌を[[ヴァイオリン]]で弾くことができた。9歳で、ベルゲン劇場管弦楽団の第1ヴァイオリンを担当し、[[ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団]]と共演してソリストも務めた。18歳の時、[[クリスチャニア大学|オスロ大学]]に行かされるが、試験に落第してしまう。クリスチャニアの音楽院にも籍を置き、1828年に院長の[[ヴァルデマル・トラーネ]](Waldemar Thrane)Thrane)が病死すると、音楽院とクリスチャニア劇場管弦楽団を監督した<ref name="haugen"/>。また、[[ヘンリック・ヴェルゲラン]]と親交を結んだ(ヴェルゲランは後にブルの[[伝記]]作家となった<ref name="haugen"/>)。[[法学]]を学ぶふりをしてしばらく[[ドイツ]]に過ごした後、[[パリ]]に移るが、最初の1~2年は羽振りが悪かった。[[1832年]]に、[[モラヴィア]]出身の[[ヴィルトゥオーゾ]]、[[ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト]]とパリで同室になり、[[パガニーニ]]流の演奏様式を手引きされる。ついには自身も上級のヴィルトゥオーゾとして成功を収め、何千回も演奏会を行なった([[1837年]]だけでも[[イングランド]]において274回もの演奏会を開いている<ref name="haugen">{{Citation
| last = Haugen
| first = Einar