「アレクサンドル・ブルイギン」の版間の差分

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[[1905年]][[1月20日]]、相次ぐ農村暴動や[[ストライキ]]の責任を取り辞任した[[ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー]][[公爵]]の後任として内務大臣に任命される。 ブルイギンの業績として最も注目されるのが、俗に「'''ブルイギン憲法'''」ないし「'''ブルイギン宣言'''」と呼ばれる1905年8月に発布された[[勅令]]である。宣言の内容は「[[ツァーリ]]を輔弼する」ための諮問機関としての[[議会]]の創設、信教の自由、[[ポーランド人]]に対する[[ポーランド語]]の使用許可、農民の弁済額の減額を認めるというものであった。しかし、国民は議会の権限の小ささと、[[選挙権]]に制限が加えられていることに幻滅し、騒乱は更に激化した。10月にはゼネストが起きる事態にまで発展したため、[[10月17日]]内相の職から去らざるを得なかった。
 
[[ロシア革命]]後の[[1919年]]、[[チェーカー]]により逮捕され、銃殺された。
 
{{先代次代|ロシア帝国内務大臣|[[1905年]]2月-[[1905年]][[10月17日]]|[[ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー|スヴャトポルク=ミルスキー]]|[[ピョートル・ドゥルノヴォ]]}}
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[[Category:帝政ロシアの政治家]]
[[Category:ロシア帝国国家評議会議員]]
[[Category:刑死した人物]]
[[Category:1851年生]]
[[Category:1919年没]]