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*「江戸幕府老中奉書 慶安元年11月18日付」(阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙)
:「'''喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。藩主の息子である梅千代(4代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ'''」(要約)<ref>『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P65による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。</ref>
 
 
== 『及聞秘録』(筑波大学中央図書館和文書館所蔵・閲覧可)の記録 ==
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   喜連川左兵衛督乱心の事  家老三人遠流の事
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喜連川左兵衛督尊信とは、関東の管領足利左馬頭基氏の末孫である。足利家は代々衰え将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰えこの尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで、喜連川殿といわれていた。
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承應(正保?)年間、喜連川左兵衛督尊信は、「狂乱の病」にかかった。よって、一色刑部二階堂主殿、柴田某の三家老は、互いに合心して尊信を座敷にて「押し籠め」とし幕府には、尊信は「病床中」につき長く参勤できないが三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っていると報告していた。
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ところが、その後、尊信の近習として仕えていた高四郎左衛門と梶原孫次郎と云う者がおり、この両人に不届があったので三家老は合議の上、この両人を追放した。その後、この両人は今度(このたび)われ等を追放したのは、三人の家老の所為であるとして内密に江戸に来て一通の目安を公儀に差出した。
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目安の大意は「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に君主尊信を「狂乱の病」と偽り座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置を三家老共の心のままにいたしており、いわれのない私ども両人を追放したので公儀において詮議してほしい。」というものであった。
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早速、幕府目付衆が調査の為、両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ、喜連川尊信は何を思ってか座敷牢から抜け出し行方不明になってしまったので3家老は驚き行方を聞き廻り、尊信をやっと探し出し再度、押し籠め厳しく番人に守らせた。幕府の目付衆が着くなり尊信を屋形に移し面談しょうとしたが、その日、尊信は調子が悪く座敷牢から出すことが出来ないので目付衆は別れて面談した。そして、「尊信の狂乱は紛れない。」ことを確認し江戸に立ち帰り公儀に報告された。
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後日、三人の家老を評定所に呼び高四郎左衛門と梶原孫次郎の訴えについて御目付が両名(高、梶原)を吟味した所「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない。」ことを認めた。
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お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し尊信の狂乱を幕府に隠し置いていたことは不届きである。」と思い召くゆえ三人共(一色刑部、二階堂主殿、柴田某)は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供はそれぞれ諸大名預りとした。
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 一色刑部の長男  相木与右衛門(妾腹)は摂州尼崎城主 青山大膳亮(幸利、譜代)御預かり
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     同じく次男  一色左京(嫡子)と三男一色八郎は泉州岸和田城主 岡部美濃守(宣勝、譜代)御預かり
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     二階堂主殿の嫡子 二階堂某は奥州白川城主 本多能登守(忠義、譜代)御預かり
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 柴田某の嫡子   柴田某は越後国新發田城主 溝口出雲守(宣直、外様) 御預かり
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三人の家老達は伊豆大島に船着し暫く居住していたが何れも老人であり程なく共に病死した。年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌(1662年)の時、大嶋の流人も多くが赦免となった。三人共(三家老)はすでに病死であったのでその儀は出来なかったが三人の子供を赦免しそれぞれ主取とした。中でも一色左京については名高き者の子であるので水野監物忠善より二百人扶持を賜り客分扱いで仰呼された。
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この一色氏というのは清和天皇の後胤であり高家の一人といえる。相州北条家の幕下に属していたので天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時、一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていた所、関八州は家康公の所領となったので多くの関東在住の名士は皆家康に仕えた。
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この時、一色を累代の高家として家康公から召誘いがあったが「すでに年老いており馬の乗降さえやっとの身であるので」と丁重に辞退した。しかしその後、秀吉公に見目しようとした時には秀吉公はすでに体調が悪く仕官はかなわず彼の子孫は喜連川の家臣として微少の身であった。その後、一色左京には男子がなく断絶したといわれる。説には兄の妾腹であった相木与右衛門については後御当家へ仕官したといわれる(以上訳)
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== 近代以降にまとめられた文献 ==