「勝竜寺城」の版間の差分

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岩成友通は[[足軽]]衆を全面に押し立て応戦したが、織田信長軍は精鋭の[[馬廻り]]衆を乗り入れ戦いを有利に進め、首級を50余りあげ、上洛を果たしていた織田信長の陣所となっていた[[東福寺]]へ届け、織田信長自身が首改めを行ったとされる。
 
首改めを済ませた織田信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、織田信長自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻に向かった。畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆であったが、織田方の大軍を恐れたのか降伏し開城した。これは観音寺城の戦いで[[近江国]]の守護であった[[六角義治]]軍が織田信長軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに[[観音寺城]]が落城したのが少なからず影響していたと考えられている。
 
その後織田信長軍は[[芥川山城]]、[[越水城]]、[[高屋城]]を攻城、降伏させていき、三好三人衆を[[阿波国]]に帰国させ畿内から掃討することになる。{{-}}
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とあり、桂川より西にある家のすべては三日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように織田信長自身が命じている。この頃の勝竜寺城は[[槇島城]]とともに織田信長の山城国の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われる。
[[ファイル:Syouryuuj9.jpg|thumb|城内にある[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ|ガラシャ]]像]]
また勝竜寺城は[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ]]ゆかりの城としても有名である。[[天正]]6年([[1578年]])8月、細川藤孝の嫡男細川忠興と[[明智光秀]]の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な[[結婚式]]を挙げ、新婚時代を過ごしたとされてている。

細川藤孝は{{和暦|1581}}に[[丹後国]]に入封し、代わって[[村井貞勝]]の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌{{和暦|1582}}[[本能寺の変]]によって明智光秀の属城となる。同年の[[山崎の戦い|山崎の戦い]]で敗走した明智光秀は勝竜寺城に帰城するも、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]軍の追撃を受け、勝竜寺城から[[坂本城]]へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方明智光秀の援軍要請を断った細川藤孝は剃髪、[[家督]]を忠興に譲って居城を[[田辺城 (丹後国)|田辺城]]に移し、細川ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が[[淀古城]]の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。
 
[[江戸時代|江戸期]]に入った{{和暦|1633}}、[[永井直清]]が[[山城長岡藩]]へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、[[徳川幕府]]より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、{{和暦|1649}}に[[摂津国]][[高槻藩]][[高槻城]]に転封されると同時に完全に廃城となった。