「第3回十字軍」の版間の差分

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=== 教皇グレゴリウス8世による聖地奪回の呼びかけ ===
この事態に対して[[ローマ教皇|教皇]][[グレゴリウス8世 (ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]は、聖地奪還を目的とする新たな十字軍の派遣を[[イングランド]]や[[フランス]]に呼びかけた。[[ヘンリー2世 (イングランド王)|イングランド王ヘンリー2世]]と[[フィリップ2世 (フランス王)|フランス王フィリップ2世]](尊厳王)は領土問題を巡って戦争状態にあったが、要請を受けたことでこれを終結し、双方とも国内では「サラディン税」を課して十字軍編成のための資金とした。しかし両国間の戦争はすぐに再開し、さらにイングランド国内ではヘンリー2世の息子リチャードが国王フィリップ2世臣従し父と敵する反乱を開始していた。
 
===フリードリヒ1世の第一陣===
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===リチャード1世とフィリップ2世によるアッコン征服===
[[1191年]]、[[リチャード1世 (イングランド王)|イングランド王リチャード1世]](獅子心王)とフィリップ2世は共に海路ではあるが、関係が悪化していたため別々にパレスチナに到着した。リチャードの船団はその途上で嵐にあい、何隻かが[[キプロス|キプロス島]]に滞在しまで流されたが、その時東ローマ帝国から離反していた島の統治者から受けが漂着し扱い財宝を略奪し、乗員らを身代金目当てで牢怒り入れたためリチャードは戦って5月末までに島全体を占領した。そして一たんは[[テンプル騎士団]]に島統治を委ねるがその後すでに有名無実化していたエルサレム王国の王[[ギー・ド・リュジニャン]]にこの島を売り払っ譲渡した。一方、フィリップはティールに到着して、エルサレム王国の王位継承を主張していた[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|モンフェラート侯コンラード1世]]と同盟を結んだ。
 
1191年4月、フィリップらは先のフリードリヒの敗残兵を加えて[[アッコン]]の攻囲を開始し、6月にはリチャードの軍が包囲に加わった。アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、[[7月12日]]アッコンは陥落した。しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に主導権を巡って内部抗争が起きた。ドイツ人たちの司令官であった[[レオポルト5世 (オーストリア公)|オーストリア公レオポルト5世]]は、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲し自身の旗を掲げたが、リチャード占領これを撤去したため、激怒した都市からレオポルトの旗を撤去5世は十字軍から離脱帰路についた。一方のフィリップ2世またリチャード、病気を理由不満を募らせ、87に帰国した。
 
=== リチャード1世とサラーフッディーンの休戦協定 ===
[[8月2220日]]リチャードはアッコン降伏時の協定をサラーフッディーンが遵守していないとして、拘留されていた[[ムスリム]]30002700人あまりを処刑した。リチャードはエルサレムを攻撃するための出発地として港町[[ヤッファ]](ヤッフォ)の奪取を計画した。9月にアルスフを行軍していた彼らをサラーフッディーンが攻撃したが、リチャードはこの戦いで目覚しい勝利を挙げた([[アルスフの戦い]])。[[1192年]]1月にはエルサレムへの進撃の準備が整ったが、サラーフッディーンは軍勢を増強し、都市を要塞化して待ち構えていた。リチャードは2回ほどエルサレムに接近したが、サラーフッディーンの大軍を目の当たりにして軍を退いた。7月に入るとサラーフッディーンがヤッファの奪還に動き出すも、[[7月31日]]の戦闘で数では勝っていたはずにも関わらずリチャードの軍に敗れ、失敗した。
 
リチャードの軍勢は疲弊し、いつまでたってもエルサレムを落とせないことに対する不満や国へ帰りたいという不満が軍の中に渦巻いていた。1192年[[9月2日]]、リチャードとサラーフッディーンは1年以上に及ぶ交渉の結果、アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置き、エルサレムはイスラム教徒の統治下に置くという最終的な[[休戦協定]]を結んだ。また但し書きとして非武装の[[キリスト教徒]]の[[巡礼者]]がエルサレムを訪れることを許可するという条件も加えられた。9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。