「ソビエト連邦作曲家同盟」の版間の差分

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これにより同盟は強力な組織力をもつようになり、オーケストラやアンサンブルなどの上演団体・コンサートホールや劇場・音楽出版社・文化省・権利団体・音楽学校、レコード店に強い影響を及ぼした。同盟は音楽業界をコントロールし、共産党の指導層と作曲家との交渉を引き受けていたのである。しかし芸術的な音楽の創造と党官僚との関係は複雑で変わりやすく、時として芸術表現の抑制につながった。
 
[[1936年]]、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]の[[オペラ]]『[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]』が攻撃された。共産党機関紙『[[プラウダ]]』で「音楽の代わりに荒唐無稽」という記事が掲載されたのである。この記事はスターリン本人が執筆したともいわれている。同盟はこの批判的なスタンス立場を支持した。
 
[[1948年]]、[[アンドレイ・ジダーノフ]]は[[ヴァノ・ムラデリ]]のオペラ『偉大な友情』の批判を皮切りに、多くの作曲家に「形式主義」のレッテルを貼った。これによりショスタコーヴィチ、[[セルゲイ・プロコフィエフ]]、[[ニコライ・ミャスコフスキー]]、[[ヴィッサリオン・シェバリーン]]らが攻撃された。この[[ジダーノフ批判]]の最中の1948年4月19日から25日まで悪名高い作曲家同盟第1回総会が開催され、作曲家同盟は党の一部門と化した。この第1回総会ではスターリンとジダーノフによって、[[ティホン・フレンニコフ]]が書記長に選出され、彼は[[1991年]]のソ連崩壊までそのポストを維持し続けた。
 
第2回総会は[[1957年]]3月28日から4月5日まで、第3回総会は[[1962年]]3月26日から4月3日まで開かれた。これらの総会はたいてい音楽祭やコンサートシリーズを伴っていた。フレンニコフや他の書記の報告には同盟の音楽創造の状況とともに、時として批判も含まれていた。[[1979年]]の第6回総会では[[エレーナ・フィルソヴァ]]、[[ディミトリー・スミルノフ]]、[[アレクサンドル・クナイフェ]]、[[ヴィクトル・ススリン]]、[[ヴャチェスラフ・アルチョーモフ]]、[[ソフィア・グバイドゥーリナ]]、[[エディソン・デニソフ]]のいわゆる「フレンニコフの7人」が「革新的な音楽というよりもむしろ、的外れ、騒音、汚泥」と批判された。まるで第1回総会に戻ったかのような罵りであった。
 
ソ連崩壊後、ソ連作曲家同盟はロシア作曲家同盟と改められ、新しい指導者に[[ウラディスラフ・カゼーニン]]が選ばれた。一方、[[1990年]]には[[モスクワ]]で新しい現代音楽協会(ACM)が創設され、議長にエディソン・デニソフが選ばれた。