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しかし長和2年(1013年)、妍子が出産したのは女御子(禎子内親王、のちの陽明門院)であった。前年[女成]子の皇后立后を巡ってぎくしゃくしていた道長と三条天皇の間は、妍子に皇子が誕生することで関係修復を期待されていたのだが、それも無に帰してしまい、道長はこの内親王誕生に大層不機嫌であったという。結局その後も皇子は産まれず、三条天皇は道長の圧力に押し切られて譲位、ほどなく崩御した。妍子の皇子が帝位に就く可能性はこれでなくなり、また[女成]子所生の[[敦明親王]]が三条天皇の没後皇太子を辞退してしまったこともあって、[[冷泉天皇]]系の男子の皇統は完全に将来を閉ざされることになった。
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