「藤原妍子」の版間の差分

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 しかし長和2年(1013年)、妍子が出産したのは女御子(禎子内親王、のちの陽明門院)であった。前年[女成]子の皇后立后を巡ってぎくしゃくしていた道長と三条天皇の間は、妍子に皇子が誕生することで関係修復を期待されていたのだが、それも無に帰してしまい、道長はこの内親王誕生に大層不機嫌であったという。結局その後も皇子は産まれず、三条天皇は道長の圧力に押し切られて譲位、ほどなく崩御した。妍子の皇子が帝位に就く可能性はこれでなくなり、また[女成]子所生の[[敦明親王]]が三条天皇の没後皇太子を辞退してしまったこともあって、[[冷泉天皇]]系の男子の皇統は完全に将来を閉ざされることになった。
 
『[[栄花物語]]』などによれば、 妍子は道長の娘達の中でも特に美しかったという。い、また妍子に仕える女房達の衣装が贅沢すぎることで、父道長や兄頼通が叱責したとの逸話もあり、姉妹の中でも華美を好む性格であったらしい。しかし皇太后とはいえ、皇子の出産なく終わった彼女は、もはや表舞台に立つ存在ではなくなっていた。その後妍子は一人娘禎子内親王と共に三条天皇から伝領した枇杷殿に住み、万寿4年(1027年)3月に禎子内親王が東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入内するのを見届けて、その半年後に病で崩じた。度の過ぎた派手好きさが身内の眉をひそめさせることもあった妍子だが、亡くなる間際に身を清め、正式な受戒を済ませての潔い臨終であり、道長・倫子夫妻は末娘嬉子に続く次女の死に「老いた私達父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと伝えられる。(『[[栄花物語]]』)