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1716年([[享保]]元年)、14歳の時[[徳川吉宗]]に拝謁、1725年(享保10年)に[[小姓組]]に入り、[[小納戸]]、[[徒士]]頭と昇進し、[[目付]]になる。そこから[[作事奉行]]を経て、[[能勢頼一]]の後任として[[北町奉行]]に就任し、1769年([[明和]]6年)まで務めた後、さらに[[大目付]]へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、1782年(天明2年)、老齢を理由に致仕。
 
北町奉行在任中には、[[山県大弐]]、[[藤井右門直明]]、[[竹内式部敬持]]らが策動したとされる、所謂[[明和事件]]の解決に手腕を振るい、彼らに死罪、獄門、遠島などの処分を下した。他にも、[[札差]]と[[旗本]]の間で対立が生じてエスカレートした際、その仲介を務め、一方踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力した。
 
== 参考文献 ==