「江戸三座」の版間の差分
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[[Image:Morita-za in the 1790s.jpg|thumb|left|300px|[[寛政|寛政年間]] (1789–1800) の木挽町森田座]]
しかし間もなく河原崎座が座元の後継者を欠いて[[倒産|休座]]になったので、[[寛文]]3年 ([[1663年]]) に森田座がこれを吸収するかたちで合併した。さらに正徳4年 ([[1714年]]) には[[江
慌てたのは芝居関係者だった。芝居小屋は役者や[[狂言作者]]を雇っているだけではなく、周囲に数々の芝居茶屋<ref name=CHAYA />や浮世絵の[[浮世絵|版元]]などを従えた歓楽街の中核である。それがなくなってしまうということは、木挽町全体の死活問題でもあった。そこで森田座に代わる新しい櫓をあげることが模索されたが、すでにこの頃までに官許三座制が確立しており、新規の櫓が認められることはまず望めない。それならばと、かつて官許を得ながら廃座になった河原崎座・都座<ref>寛永10年 (1633) に都伝内(みやこ でんない)という者が堺町に櫓をあげ、これを'''都座'''といったが、間もなく経営難で廃座となった。</ref>・桐座<ref>寛文元年 (1660) に桐大内蔵(きり おおくら)という者が木挽町五丁目に櫓をあげ、これを'''桐座'''といったが、これも間もなく経営難で廃座となっている。</ref>の座元の子孫が名乗り出て、それぞれ先祖の由緒書とともに旧座の再興を願い出た。
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|bgcolor=#FFFFCC|[[江
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|[[1734年|享保19年<br /> 1734]]
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