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'''依田 信蕃'''(よだ のぶしげ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。甲斐[[武田氏]]の家臣後に[[徳川氏]]の家臣。
 
== 生涯 ==
はじめ[[武田信玄]]に[[信濃国|信濃]][[先方衆]]として仕え、信玄の死後は引き続き[[武田勝頼|勝頼]]に仕えた。[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]の時期には[[遠江国|遠江]][[二俣城]]の守将を務めた父の依田信守と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。しかし、長篠の戦いで武田軍が大敗し[[徳川家康]]率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。この間に病床にあった信守は死亡。信蕃が守将となり籠城が続行された。徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めにするしかできなかった。実に半年にも渡った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れにより、全員の助命を条件に開城、[[高天神城]]に退去した。退去の際、城内を清掃したのち、整然と退去したとされている。後に[[駿河国|駿河]][[田中城]]の城将となった
 
天正10年([[1582年]])、[[織田信長]]による[[武田征伐]]が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた[[徳川家康|家康]]は[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続けるうちに織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である[[穴山信君|穴山梅雪]]からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく[[大久保忠世]]に引き渡している。田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、「勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答えこれを謝絶。自領の[[佐久]]地方へ帰還し、[[小諸城]]代となった[[森長可]]と対面した。しかし、信長が武田旧臣に対して苛烈な姿勢で臨んでいるとの風評を聞きつけ、家康の計らいで二俣の小川郷に蟄居し難を逃れた。
のち[[駿河国|駿河]][[田中城]]の城将となった。
 
天正10年([[1582年]])、[[織田信長]]による[[武田征伐]]が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた[[徳川家康|家康]]は[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続けるうちに、織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である[[穴山信君|穴山梅雪]]からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく[[大久保忠世]]に引き渡している。田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、「勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答えこれを謝絶。自領の[[佐久]]地方へ帰還し、[[小諸城]]代となった[[森長可]]と対面した。しかし、信長が武田旧臣に対して苛烈な姿勢で臨んでいるとの風評を聞きつけ、家康の計らいで二俣の小川郷に蟄居し難を逃れた。
 
同年6月、[[本能寺の変]]で信長が死去し、武田遺領を巡って[[天正壬午の乱]]が起こると、家康の招聘を受けて[[徳川氏]]の家臣となった。[[信濃国|信濃]]・[[甲斐国|甲斐]]における旧[[武田氏]]家臣団の調略に大きな功績を挙げた。また、自ら徳川方に引き入れた[[真田昌幸]]と共に東信においてゲリラ戦を展開、甲斐[[若神子]]まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。この事実と甲斐[[郡内]]において北条軍が徳川軍に敗北したことにより、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で後北条氏との講和が成立した。これらの功績により小諸城を任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを好しとしない勢力は、岩尾城の大井氏の下に集まった。
 
天正11年(1583年)2月23日、北条方の[[大井行吉]]の信濃[[岩尾城]]を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。攻城三日目、焦れて先頭に立って督戦中に敵の銃撃を受け、その戦傷がもとで死去した。[[享年]]36。この時、弟の信幸も討ち死にしている。のちに長男の松平(依田)康国が整備した[[蕃松院]]が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。
 
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