「于右任」の版間の差分

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| 簡体字=于右任
| 繁体字=于右任
| ピン音={{lang|zh-hant|Yú Yòurèn}}
| 通用=
| 注音=
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| 和名=う ゆうじん
| 発音=ユー ヨウレン
| ラテン字=Yu You-jen
| 英語名=
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[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)1月、[[南京市|南京]]で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、[[宋教仁]]が暗殺されると、[[袁世凱]]打倒のために二次革命([[第二革命]])などに参与した。[[護法運動]]が開始された[[1918年]](民国7年)に故郷へ戻り、[[胡景翼]]とともに[[陝西省 (中華民国)|陝西]]靖国軍を組織して、于右任が総司令となった。
 
[[1922年]](民国11年)5月、于右任は上海に移る。そして[[葉楚ソウ|葉楚傖]]とともに[[国立上海大学]]を創設し、于右任が校長となった。[[1924年]](民国13年)4月、[[中国国民党]]第1期中央執行委員に選出された。同年12月に[[孫文]]に随従して[[北京市|北京]]入りしている。
 
[[1926年]](民国15年)9月、于右任は[[馮玉祥]]による[[五原誓師]]に参加し、陝西省政府主席となった(ただし、[[石敬亭]]が代理)。翌年、国民聯軍駐陝総司令として、[[北伐]]に呼応する準備を整えた。4月、蒋介石が南京に[[国民政府]]を創設すると、于は国民政府委員(同年9月に常務委員)、軍事委員会常務委員に任命された。
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! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|内務総長(就任せず)|<small>[[1925年]]12月 - [[1926年]]3月</small>|[[キョウ心湛|{{lang|zh|龔}}&#x9F94;心湛]]|[[屈映光]]}}
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! {{CHN1928}}([[国民政府]])
{{先代次代|南京国民政府常務委員|<small>[[1928年]]1月 - 2月<br>(集団指導制:[[汪兆銘]]、[[譚延ガイ|譚延{{lang|zh|闓}}&#x95D3;]]、<br>[[胡漢民]]、[[蔡元培]]、[[李烈鈞]]、[[蒋介石]]、<br>[[孫科]]、[[林森]])</small>|集団指導制:[[汪兆銘]]ら5名|[[譚延ガイ|譚延{{lang|zh|闓}}&#x95D3;]](主席)}}
{{先代次代|[[中華民国監察院|監察院長]]|<small>[[1930年]]11月 - [[1964年]]11月</small>|[[趙戴文]]|[[李嗣ソウ|李嗣{{lang|zh|璁}}&#x7481;]]}}
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