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{{基礎情報 武士
'''石川 忠総'''(いしかわ ただふさ、[[1582年]]([[天正]]10年) - [[1651年]][[2月14日]]([[慶安]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]))は[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]第3代藩主、[[豊後国]][[永山城|日田藩]]主、[[下総国]][[佐倉藩]]主、[[近江国]][[膳所藩]]初代藩主。[[伊勢亀山藩]]石川家3代。
| 氏名 = 石川忠総
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[天正]]10年([[1582年]])
| 死没 = [[慶安]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1651年]][[2月14日]])
| 別名 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従四位|従四位下]][[主殿寮|主殿頭]]
| 幕府 =
| 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]]
| 藩 = [[美濃国|美濃]][[大垣藩]]主→[[豊後国|豊後]][[永山城|日田藩]]主→<br />[[下総国|下総]][[佐倉藩]]主→[[近江国|近江]][[膳所藩]]主
| 氏族 = [[大久保氏]]→[[石川氏]]
| 父母 = 父:[[大久保忠隣]]、母:[[石川家成]]の娘<br />養父:''石川家成''
| 兄弟 = [[大久保忠常|忠常]]、'''石川忠総'''、[[大久保教隆|教隆]]、[[大久保幸信|幸信]]、[[石川成堯]]<br />[[大久保忠尚|忠尚]]、[[大久保忠村|忠村]]、[[大久保貞義|貞義]]、娘([[依田康真]]室)<br />娘(久貝忠左衛門室)、娘(勝蔓寺教了室)
| 妻 = 正室:[[堀尾吉晴]]の娘、継室:[[前田玄以]]の娘
| 子 = [[石川廉勝|廉勝]]、[[石川総長|総長]]、[[石川貞当|貞当]]、[[石川泰総|泰総]]、[[石川邦総|邦総]]、[[石川総氏|総氏]]<br />娘([[中川久清]]室)}}
 
'''石川 忠総'''(いしかわ ただふさ、[[1582年]]([[天正]]10年 - [[1651年]][[2月14日]]([[慶安]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]))[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]第3代藩主、[[豊後国|豊後]][[永山城|日田藩]]主、[[下総国|下総]][[佐倉藩]]主、[[近江国|近江]][[膳所藩]]初代藩主。[[伊勢亀山藩]]石川家3代。
== 経歴 ==
[[大久保忠隣]]の次男。母は[[石川家成]]の娘。[[徳川秀忠]]より名前の一字を拝領し、「忠総」を名のる。従四位下、主殿頭。正室は[[堀尾吉晴]]の娘。継室は[[前田玄以]]の娘。子に[[石川廉勝]](長男)、[[石川総長]](次男)、[[石川貞当]](四男)、石川泰総(五男)、石川邦総(六男)、[[石川総氏]](七男)、娘([[中川久清]]正室)。
 
[[大久保忠隣]]の次男。母は[[石川家成]]の娘。[[徳川秀忠]]より名前の一字を拝領し、「忠総」を名のる。従四位下、主殿頭。正室は[[堀尾吉晴]]の娘。継室は[[前田玄以]]の娘。子に[[石川廉勝|廉勝]](長男)、[[石川総長|総長]](次男)、[[石川貞当|貞当]](四(4男)、[[石川泰総(五|泰総]](5男)、[[石川邦総(六|邦総]](6男)、[[石川総氏|総氏]](七(7男)、娘([[中川久清]]正室)。
[[慶長]]3年([[1598年]])から[[徳川家康]]の小姓頭となって仕え、[[関ヶ原の戦い]]では[[下野国|下野]]小山に在陣した。同年冬、母方の祖父である石川家成の養子となる。慶長12年([[1607年]])、家成の嗣子であった[[石川康通]]が家成より先に死去した。康通には子がいたが、幼少のために家成がやむなく家督を再び継いだ。そしてその家成も慶長14年([[1609年]])に死去した。しかし家成の嫡孫はまだ幼少であったため、家康の命で忠総が家督を継いだのである。しかし慶長19年([[1614年]])、[[大久保長安事件]]で父・忠隣が改易されると、連座により忠総も[[駿河国|駿河]]で蟄居を命じられた。しかし[[大坂冬の陣]]が起こると「忠総は石川の家督相続人で実父の縁座に掛からない」とすぐその罪を許されて従軍し、功を挙げた。翌年の[[大坂夏の陣]]においても戦功を挙げている。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])9月、1万石加増の上で豊後日田藩へ加増移封された。元和6年([[1620年]])の[[大坂城]]修築でも功を挙げている。そして[[肥後国|肥後]]の[[加藤忠広]]が改易されると、その後の処理を取り仕切っている。
 
== 経歴生涯 ==
[[寛永]]10年([[1633年]])6月7日、下総佐倉藩へ加増移封。翌年には近江膳所藩へ移封された。慶安3年(1650年)12月24日、69歳で死去。嫡男・廉勝は早世していたため、廉勝長男で嫡孫の[[石川憲之]]が後を継いだ。
[[慶長]]3年([[1598年]])から[[徳川家康]]の小姓頭となって仕え、[[関ヶ原の戦い]]では[[下野国|下野]]小山に在陣した。同年冬、母方の祖父である石川家成の養子となる。慶長12年([[1607年]])、母方の伯父で家成の嗣子であった[[石川康通]]が家成より先に死去した。康通には子に[[石川忠義|忠義]]がいたが、幼少のために家成がやむなく家督を再び継いだ。その家成も慶長14年([[1609年]])に死去、忠義はまだ幼少であったため、家康の命で忠総が家督を継いだ。
 
[[慶長]]3年([[1598年]])から[[徳川家康]]の小姓頭となって仕え、[[関ヶ原の戦い]]では[[下野国|下野]]小山に在陣した。同年冬、母方の祖父である石川家成の養子となる。慶長12年([[1607年]])、家成の嗣子であった[[石川康通]]が家成より先に死去した。康通には子がいたが、幼少のために家成がやむなく家督を再び継いだ。そしてその家成も慶長14年([[1609年]])に死去した。しかし家成の嫡孫はまだ幼少であったため、家康の命で忠総が家督を継いだのである。しかし慶長19年([[1614年]])、[[大久保長安事件]]で忠隣が改易されると、連座により忠総も[[駿河国|駿河]]で蟄居を命じられた。しかし[[大坂の役#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]が起こると「忠総は石川の家督相続人で実父の縁座に掛からない」とすぐその罪を許されて従軍し、功を挙げた。翌年の[[大坂の役#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]においても戦功を挙げている。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])9月、1万石加増の上で豊後日田藩へ加増移封された。元和6年([[1620年]])の[[大坂城]]修築でも功を挙げている。そして[[肥後国|肥後]]の[[加藤忠広]]が改易されると、その後の処理を取り仕切っている。
忠隣の子ということもあるが、彼自身才能に優れ、功績も多かったため、家康や[[徳川秀忠]]から大いに信任を受けた。家康は病床にあるとき、秀忠に忠総を大切に扱えと遺したとまで言われている。
 
[[寛永]]10年([[1633年]])6月7日、下総佐倉藩へ加増移封。翌年には近江膳所藩へ移封された。慶安3年(1650年)1212月24日(1651年2月14日)、69歳で死去。嫡男廉勝は早世していたため、廉勝長男で嫡孫の[[石川憲之|憲之]]が後を継いだ。
{{大垣藩主|石川氏|3代|1609-1616}}
 
{{先代次代|[[永山城|石川氏(日田藩)藩主]]|1616 - 1633|代官[[小川光氏]]|代官[[小川正長・小川氏行]]}}
忠隣の子ということもあるが、彼自身才能に優れ、功績も多かったため、家康や[[徳川秀忠]]から大いに信任を受けた。家康は病床にあるとき、秀忠に忠総を大切に扱えと遺したとまで言われている。また、『石川忠総留書』の著者でもある。
{{佐倉藩主|石川氏||1633-1634}}
 
{{膳所藩主|石川氏|初代|1634-1650}}
{{大垣藩主|石川氏|3代|1609- 1616}}
{{先代次代|[[永山城|石川氏(日田藩)藩主]]|1616 - 1633|代官[[小川光氏]]|代官[[小川正長・小川氏行]]}}
{{佐倉藩主|石川氏||1633- 1634}}
{{膳所藩主|石川氏|初代|1634- 1650}}
 
[[Category:戦国武将|いしかわ たたふさ]]