「ミカロユス・チュルリョーニス」の版間の差分

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m チュルリョーニスは18歳までリトアニアで育ち、「ポーランド育ち」は誤りなので削除した。ほかは地名、人名の細かな編集をした。
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[[画像:Mikalojus_Konstantinas_Ciurlionis.jpg|right|176px|thumb|'''ミカロユス・チュルリョーニス''']]
{{クラシック音楽}}
'''ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス'''('''Mikalojus Konstantinas Čiurlionis'''、[[1875年]][[9月22日]]、[[リトアニア]]・ヴァレーナ - [[1911年]][[4月10日]]、[[ワルシャワ]]近郊)は、[[ポーランド]]育ちの[[リトアニア]]人[[画家]]・[[作曲家]]。短い生涯の間に、約300点の絵画と約200点の楽曲を遺した。美術作品の多くは、[[リトアニア]]国立チュルリョーニス美術館([[カウナス]]市)に蒐集されている。作曲家としての活躍は近年まで忘れられていたが、[[画家]]としては世紀末の[[ロシア帝国|ロシア]]画壇で生前から注目されており、独自の幻想的な画風は[[ワシリー・カンディンスキー|カンディンスキー]]に影響を与え、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]もチュルリョーニスの絵画を持っていたことがある。晩年に精神を病み、それ以降に作曲や描画において伝統と隔絶した作風をとるようになったことから、[[アウトサイダー・アート|アール・ブリュ]]の芸術家に分類されることもある。[[ロマン・ロラン]]や[[オリヴィエ・メシアン]]もその作品に注目した。
 
チュルリョーニスの作品が現代のリトアニア文化に精神的に与えた影響は大きく、たとえば一般に政治家として有名な[[ヴィタウタス・ランズベルギス]]は、本職はチュルリョーニス研究の[[音楽学者]]ならびに[[ピアニスト]]である。
 
日本では、[[1992年]]3月に東京[[セゾン美術館]]で催されたチュルリョーニス展がきっかけとなり、この芸術家の画業が知られるようになった。
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ポーランドに戻ってから([[1902年]]末または[[1904年]]から)[[1906年]]までワルシャワ美術学校にも学んだ。[[1907年]]には第1回リトアニア美術展覧会を開催するかたわら、リトアニア民謡の発掘・編曲にも尽力、さらにリトアニア芸術同盟やリトアニア合唱協会などの芸術団体を発足させた。
 
[[1908年]]秋に[[サンクトペテルブルク]]に移住し、[[アレクサンドル・ベヌア]](ブノワ]]らの画家と交流するが、経済的には失敗し、[[1909年]]1月に作家の[[ソフィヤ・キマンタイテ=チュルレネネ]]([[:pl:Sofija Kymantaitė-Čiurlionienė]])と結婚してまもなく精神異常をきたし、ワルシャワ郊外プステルニクの療養所(精神病棟との説もある)に収容された。闘病生活の中でも作曲と描画を続けていたが、[[風邪]]をこじらせ[[肺炎]]を併発し、わが子が生まれたことを知らぬまま他界した。
 
== 絵画 ==