「ヨハン・フリードリヒ (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公)」の版間の差分

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[[1651年]]、家族の中でただ1人、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗した。1665年、次兄ゲオルク・ヴィルヘルム(亡くなった長兄クリスティアン・ルートヴィヒの支配していた[[リューネブルク侯領]]を受け継いだ)からカレンベルク侯領を譲られた。[[1666年]]、ヨハン・フリードリヒは[[ハノーファー]]近郊のヘレンハウゼンに[[ヴェルサイユ宮殿]]を模倣例とした宮殿を建設した。この宮殿に付属していた庭園は、[[ヘレンハウゼン庭園]]として知られている。
 
[[1676年]]、ヨハン・フリードリヒは哲学者[[ゴットフリート・ライプニッツ]]を顧問官および公爵家図書館の司書として雇い入れた。これがライプニッツと[[ハノーヴァー朝|ハノーヴァー家]]との40年にわたる結びつきの端緒となり、ライプニッツはその後のハノーヴァー家3代を[[パトロン]]とし、ヨーロッパ随一の哲人の名をほしいままにした。作曲家[[アントニオ・サルトリオ]]も[[1666年]]から[[1675年]]まで宮廷楽士長として雇っている
 
1679年に死去した。カレンベルク侯領は[[オスナブリュック]][[司教]]になっていた弟のエルンスト・アウグストが相続した。