「ヘンリー2世 (イングランド王)」の版間の差分
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{{Main|アンジュー帝国}}
[[ファイル:France 1154 Eng.jpg|thumb||250px|right|1154年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(茶、褐色の部分)]]
ヘンリー2世は戦争で疲弊していたイングランドを安定させると、さらなる勢力拡大を図った。北は[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[マルカム4世 (スコットランド王)|マルカム4世]]を
しかし、この帝国はヘンリー2世が個人として各爵位と領土を所有しているだけで名実共に統合性は無く、ヘンリー2世の死後再び分離し始めることになる。
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ヘンリー2世と王妃エレアノールとの間には、早世したウィリアムの他、若ヘンリー(アンリ)、リチャード(リシャール)、ジェフリー(ジョフロワ)、[[ジョン (イングランド王)|ジョン]](ジャン)という4人の息子がいた。[[1169年]]、ヘンリー2世は、フランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継としてアンジューとメーヌを、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳という年齢のために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランドを分配されるが支配できずに逃げ帰っている)。
1169年のフランスとの協約に従い、ルイ7世の娘婿でもある若ヘンリーは、1170年に共同王として戴冠するが実権はなく、父に対して不満を抱いていた。特に自身の教育係だったトマス・ベケットの暗殺で父
戦いは序盤以降はヘンリー2世が優勢で、翌[[1174年]]には両者は和解した。しかしエレアノールだけは以後十数年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いられることになる。同年にルイ7世や王子達と同盟を結んでノーサンバーランドへ攻め込んだスコットランド王[[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]](マルカム4世の弟)も破り、[[ファレーズ協定]]でスコットランドのイングランドへの臣従などイングランド優位の項目を取り決めた。
ヘンリー2世は若ヘンリーらを許し和解するが、その後も若ヘンリーに君主としての実権がない状況に変化はなく、[[1182年]]、若ヘンリーは弟2人、アキテーヌ公であるリチャードとブルターニュ公のジェフリーに自分への臣従礼をとらせるよう、ヘンリー2世に要求した。ジェフリーは最終的には従ったが、リチャードは若ヘンリーへの臣従を拒み、アキテーヌに戻って反抗した。そのため、若ヘンリーとジェフリーがリチャードを攻撃する騒ぎになった。[[1183年]]に若ヘンリーは病死し、リチャードが後継者となるが、父からアキテーヌ公位をジョンに譲るように言われると、これも拒絶した。一方、ジェフリーは父ヘンリー2世から離れ、ルイ7世の後を継いだフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]のもとへ身を寄せ、[[1186年]]、パリでフィリップ2世が開催した[[馬上槍試合]]での怪我によって亡くなった。 === 失意の最期 ===
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*ベケット(1964年、[[アメリカ、イギリス映画]]) - ピーター・オトゥールがヘンリー2世を、[[リチャード・バートン]]がトマス・ベケットを演じている。
{{イングランド王|1154年 - 1189年}}
{{ノルマンディー公|1151年 - 1189年}}
{{先代次代|アンジュー伯・メーヌ伯|1151年 - 1189年<br/><small>[[若ヘンリー王|若ヘンリー]]と共同統治</small><br/><small>(1170年 - 1183年)</small>|[[ジョフロワ4世|ジョフロワ]]|[[リチャード1世 (イングランド王)|リシャール]]}}
{{先代次代|アキテーヌ公|1152年 - 1169年<br><small>[[アリエノール・ダキテーヌ|アリエノール]]と共同統治</small>|[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ]]|[[リチャード1世 (イングランド王)|リシャール1世]]}}
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