「平安神宮放火事件」の版間の差分

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'''平安神宮放火事件'''(へいあんじんぐうほうかじけん)とは、[[1976年]]([[昭和51年]])51年)[[1月6日]]に[[京都市]][[左京区]]の[[平安神宮]]で発生した[[放火及び失火の罪|放火]][[テロリズム|テロ]]事件。
 
[[新左翼 (日本)|新左翼]]活動家[[加藤三郎 (新左翼)|加藤三郎]]が起こした事件である。
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== 標的の来歴 ==
{{main|平安神宮}}
[[平安神宮]]は[[1895年]]([[明治]]28年)に「平安建都1100年記念事業」として創建された[[神社]]で、[[平安京]]を建都した[[桓武天皇]]を祀っている。
 
加藤は「自らの権威誇示のため、民百姓に塗炭の苦しみを与えるような平安京を造営し、また領土的野心のために蝦夷を侵略し、蝦夷人を虐殺・奴隷化した」桓武天皇を祭神として祀ることは「神」に対する冒涜とし、平安神宮の放火を決意した。
 
== 事件の準備 ==
加藤は1976年の[[正月]]三箇日の[[初詣]]参拝客のふりをして平安神宮に潜入、建物の構造を頭に叩き込んだ。そして内拝殿に火を付ければ本殿にも燃え移るだろうと予測した。
 
== 事件の概要 ==
1976年1月6日午前3時35分頃、平安神宮内拝殿から火の手が上がった。[[京都市消防局]]は最高レベルの「全出動」を発令し、市内各[[消防署]]から[[日本の消防車|消防車]]が駆けつけたが、既に内拝殿や本殿に燃え移っており、外拝殿(大極殿)への延焼を食い止めるのがやっとであった。
 
平安神宮は[[明治|明治時代]]の創建であったため[[文化財]]指定を受けておらず、当時の[[消防法]]の規定では[[自動火災報知設備]]の設置が義務付けられていなかった。そのため発見が遅れ、大火事となってしまった。
 
その後、加藤は平安神宮の近くにあった[[京都会館]]と[[京都市美術館]]に犯行声明の電話をかけ、闘争の存在を誇示した。ところが「電話があった」という報道しかされず、あまり話題にならなかった。
 
続いて[[2月11日]]に、加藤は「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」名義の犯行声明文を新聞社に郵送した。犯行声明文には「桓武朝廷軍による蝦夷征伐を継承する天皇制日本帝国に対して宣戦布告する」旨が記されていた。しかし、何日っても犯行声明文が公表されることはなかった。
 
加藤は「[[反皇室闘争|反天皇制闘争]]」を黙殺して葬り去ろうとする「天皇制日本国家の陰謀」に対して、ますます敵対意識を強め、黙殺できないくらいの大きな事件、「爆弾闘争」へと傾斜していった。
 
== 参考文献 ==
* 『'''京都新聞'''』1976年1月6日号外、1月6日夕刊
* 加藤三郎『'''意見書 <small>「大地の豚」からあなたへ</small>'''』思想の科学社、1992年
 
== 関連項目 ==