「国鉄C62形蒸気機関車」の版間の差分

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== 改造までの経緯 ==
[[終戦の日|終戦]]当時、国鉄(当時は[[運輸省]])には[[戦時体制|戦時]]物資輸送用の[[貨物列車|貨物用]]機関車が大量に在籍していたが、これらは終戦とともに大半が余剰となった。一方で、[[旅客列車|旅客用]]機関車はかなり不足していた。これに加え、増える一方の[[買出し]]も、旅客用機関車の不足にさらなる拍車をかけた。しかし[[進駐軍|占領軍]]の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難であった。
 
そこで、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]側担当[[将校]]デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両の[[ボイラー]]を旅客用機関車に転用<ref>D52より転用のボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機をのぞいてはのちに新製ボイラーに換装されている。</ref>することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用<ref>して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった。財政難で発注がキャンセルされたC57・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、[[鋳造]][[台枠]]を削って無理やり収めた2軸[[蒸気機関車の構成要素|従台車]]の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。</ref>して組み合わせなお、D52より転用のボイラーは、戦時製造の機関め信頼性が低く、少数の早期廃『改造』名義でのぞいてはのちに新造することボイラーなった換装されている
 
占領軍 ([[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]) の[[インフレーション|インフレ]]抑制政策([[ドッジ・ライン]])の指示は、本形式と[[国鉄C61形蒸気機関車|C61形]]がほぼ全機ロールアウトする後の[[1949年]]3月のことであり、巷間言われるような関係は無い。
 
これにより、[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]から[[国鉄C61形蒸気機関車|C61形]]、D52形から'''C62形'''が改造された。C61形は、[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]相当の[[線路等級|乙線]]規格の機関車であったのに対し、'''C62形'''は[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]に代わる[[線路等級|特別甲線]]での[[特別急行列車|特急列車]]・[[急行列車]]の牽引を目的に改造されたものである。
 
== 構造 ==
機関車全長は、[[炭水車]]を含めて21.48m。重量は145.2t。走り装置はC59形を基本とし、[[動輪]]直径もC59形と同じで国内最大となる1,750mm。軸配置は、従来の2-C-1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)のパシフィック形では[[活荷重|軸重]]が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2-C-2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08t以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え、<ref>ただし、従台車の支点位置は工場出荷時に決定された位置から変更不可のため、途中での改造時には従台車の新製品あるいは仕様が一致する廃車発生品への交換が必要であった。</ref>先台車のバネ定数を変更<ref>板バネ枚数を16枚から17枚に増やす</ref>しバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9tへ引き下げることが可能<ref>動軸の軸重を3軸合計で48.2tから44.6tへ引き下げ。車両重量そのものはほとんど変化していないため、その分先台車と従台車の負担が増大することになる。</ref>で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造されたものと、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は[[白河駅|白河]]以南の[[東北本線]]や、[[仙台駅|仙台]]以南の[[常磐線]]で使用されたほか、末期には、[[鉄道の電化|電化]]の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった[[函館本線]]に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例通り[[ワルシャート式弁装置|ワルシャート式]]であるが、動力逆転機が標準装備されていた。
 
軽軸重形は[[空転]]防止(出力抑制)のため、[[シリンダ]]内に[[シリンダーライナー|スリーブ]]を挿入しての[[ボア]]ダウンが併せて施されたとの通説があるが、初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず<ref>昭和28年発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述が無い。</ref>、また最初に函館本線に転属した3号機にもこの対策は施されず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録は無く、機関士の使用感が違ったとの記録も無い<ref>D62の例と混同され、広まった可能性が指摘される。</ref>
 
本形式の製造は、[[治具]]や[[ライン生産|生産ライン]]、それに[[在庫]]の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった[[日立製作所]][[笠戸]]工場(1 - 21号機)、[[川崎重工業|川崎車輌]][[兵庫県|兵庫]]工場(22 - 36号機)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係で[[国鉄C61形蒸気機関車|C61形]]の発注をキャンセルされた[[汽車製造]][[大阪]]製作所(37 - 49号機)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は[[プロトタイプ|試作機]]としての役割を持つ1 - 4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、基本的には36号機以前と共通設計ながら、前後で同一形状の[[蒸気機関車の構成要素|蒸気溜り]]と[[砂撒き装置|砂箱]]の[[カバー|キセ]]や、弁装置の調整など、C59形の設計に参加した高田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。
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ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、[[煙管]]長は5,000mm、[[燃焼室]]付きである。
 
[[炭水車]]は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全[[溶接]]構造の船底形車体に、[[石炭]]10tおよび水22tを搭載可能とする10-22形が連結されていた。2 - 4号機で旧[[南満州鉄道|満鉄]]向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、5号機以降でこれが制式化<ref>され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。</ref>され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された
 
本形式は大直径[[動輪]]の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、[[車両限界]]への抵触が心配された。そこで、[[煙突]]は太く短めのものとし、[[蒸気機関車の構成要素|蒸気溜り]]と[[砂撒き装置|砂箱]]を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。また、[[汽笛]]も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている。
 
ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m&sup2;時の最大[[出力]]は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現しており、いる。実際に新造開始直後山陽本線[[糸崎駅|糸崎]] - [[八本松駅|八本松]]間で実施されたC59形<ref>ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型が選出された。</ref>C59形との性能比較試験では、同一条件下で[[燃費|石炭消費量]]が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている<ref>。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いため。</ref>である
 
== 運転 ==
[[1948年]]に完成したC62形は、当初、[[広島機関区|広島]]・[[糸崎機関区|糸崎]]・[[下関総合車両所|下関]]・[[岡山機関区|岡山]]・[[姫路機関区|姫路]]・[[宮原機関区|宮原]]・[[梅小路機関区|梅小路]]といった[[東海道本線]]・[[山陽本線]]沿線の各機関区に分散配置<ref>され、既存のC59形と共通運用で運転が開始された。そのほとんどが当初各メーカーに近い機関区に配置されている。具体的には、日立製は[[浜松機関区]]に配置された6号機と後期製造の軽軸重形3両(19 - 21号機。[[宇都宮機関区]]に配置)を除く全車が岡山以西の各機関区に、川車製はやはり浜松に配置された28号機以外が下関から梅小路までの東海道・山陽本線の各機関区に、そして汽車製も45号機以降の軽軸重形([[水戸機関区]]に配置)以外は岡山・宮原・梅小路の3機関区にそれぞれ分散配置されている。これは納品後の不具合洗い出しと、運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的であったと見られる。</ref>され、既存のC59形と共通運用で運転が開始された。

また、[[1949年]]には、最初から軽[[活荷重|軸重]]形として完成したタイプが[[東北本線]][[白河駅|白河]]以南<ref>・[[常磐線]]に新製投入された。前者は当初は宇都宮区に配置。なお、試験的に白河以北へも入線したことはあったが、勾配の連続する[[郡山駅 (福島県)|郡山]] - [[福島駅 (福島県)|福島]]を中心に[[空転]]が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。</ref>・[[常磐線]]<ref>後者は当初は水戸区に配置。</ref>に新製投入された
 
=== 東海道本線・山陽本線(呉線を含む) ===
[[1950年]]10月改正では、[[東京駅|東京]] - [[大阪駅|大阪]]間の特急[[つばめ (列車)|「つばめ」・「はと」]]を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の[[換算両数]]が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため当時東海道・山陽本線で運用されていたC62形各車のうち、特に調子の良いものが宮原機関区<ref>その中でも29号機をはじめとする好調機、普通機、2号機などの不調機と、識別のためにそれぞれ[[ナンバープレート]]の色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループから優先的に急客牽引に充当された。</ref>と浜松区<!--<ref>[[国鉄浜松工場|浜松工場]]では工場出場後に慣らし運転無しに即座に急客牽引に充てていたが、[[主連棒]]のビッグエンドの[[軸受け|メタル]]を1/1000の[[テーパー]]に仕上げるという神技を施していたために可能となったもので、[[国鉄鷹取工場|鷹取工場]]はそれを知って真似を諦めた。</ref>-->に集められ、これらを整備の上、当時[[非電化]]であった[[浜松駅|浜松]] - 大阪間の牽引に充てることとなった。宮原機関区の中でも29号機をはじめとする好調機、普通機、2号機などの不調機と、識別のためにそれぞれ[[ナンバープレート]]の色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループから優先的に急客牽引に充当された。

本形式はこの特急運用においてその持てる性能を遺憾なく発揮し列車運転時分の短縮に大きく貢献したが、特に宮原機関区では、機構上の制約から投炭時に石炭くずが発生しやすい自動給炭機<ref>スクリュー状の送りねじを回転させて給炭するため、途中で石炭が粉砕されやすく投炭時に石炭くずが発生しやすい。</ref>自動給炭機の使用を制限し、人力投炭を行うことによって、乗客に不快感を与えるシンダ(煙突から排出される石炭の燃えカス)の発生を抑止するという、本形式の大きな火格子面積や、[[関ヶ原]]越えを含む厳しい線路条件による燃料要求量を勘案すると驚くほかはない、過酷な投炭方法を実施していたと伝えられている。
 
東海道本線の[[鉄道の電化|電化]]区間が西に伸びるに従って、本形式をはじめとする本線用蒸気機関車の運用区間は、その分短縮されていったが、1956年11月19日の東海道本線全線電化完成により、その座を[[国鉄EF58形電気機関車|EF58形電気機関車]]に譲るまで、「つばめ」・「はと」の牽引機を務めた。
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=== 東北本線・常磐線 ===
新製から数年間は[[東北本線]]の白河以南と[[常磐線]]において運用されていたが、東海道本線の電化が進んだことから[[1955年]]以降C59形が[[仙台駅|仙台]]以南の東北本線用として転属してきた。このため、本形式は[[尾久機関区|尾久]]・[[平機関区|平]]の両機関区に集約し常磐線<ref>を中心に運用されることとなった。なお、1960年代の初めごろまでは、朝・夕の通勤・通学時間帯に運転される[[東京駅]]乗り入れの常磐線の[[普通列車]](正確には、東京側の始発・終着駅は[[新橋駅]]であった)を牽引していたこともある。</ref>を中心に運用されることとなった。[[1958年]]には新設された特急「[[東北本線優等列車沿革|はつかり]]」の[[上野駅|上野]] - 仙台間(常磐線経由)の牽引機に抜擢され、この際に尾久機関区では7・8・10・11・20・22・37の逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造した<ref>動力逆転機のまま残った9・23・38・39と平機関区配置車も整備上の問題から逆転機駆動部のカバーを外している。</ref>。 特急「はつかり」は、運転開始後わずか2年の[[1960年]]に、新開発の[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]]へ置き換えられて、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、その後も常磐線内では尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、[[東北本線優等列車沿革|「みちのく」・「十和田」]]といった[[客車]][[急行列車|急行]]牽引の主力機として重用された
 
[[1958年]]には新設された特急「[[東北本線優等列車沿革|はつかり]]」の[[上野駅|上野]] - 仙台間(常磐線経由)の牽引機に抜擢され、この際に尾久機関区では7・8・10・11・20・22・37の逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造した。動力逆転機のまま残った9・23・38・39と平機関区配置車も整備上の問題から逆転機駆動部のカバーを外している。特急「はつかり」は、運転開始後わずか2年の[[1960年]]に、新開発の[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]]へ置き換えられて、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、その後も常磐線内では尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、[[東北本線優等列車沿革|「みちのく」・「十和田」]]といった[[客車]][[急行列車|急行]]牽引の主力機として重用された。
もっとも、[[1963年]]に常磐線の平駅(現在の[[いわき駅|いわき]])以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用は[[国鉄EF80形電気機関車|EF80形]]によって置き換えられた。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平 - [[仙台駅|仙台]]間のみとなった<ref>電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部(7・8・9・11・19・20)は水戸機関区を経て[[仙台車両センター|仙台機関区]]に転属し、一時は東北本線の仙台 - [[青森駅|青森]]間の旅客列車を牽引することも検討され、同じ目的で42も小樽築港機関区から転属した。だが、[[保線]]側から本形式の入線による[[軌道 (鉄道)|軌道]]への悪影響が懸念されたことや、既に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]の量産が始まっていたこともあり、実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は仙台近郊や常磐線で一部の列車を牽引する以外に目立った運用も無いまま、[[1965年]]度中に全車[[廃車 (鉄道)|廃車]]となっている。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていた[[国鉄C60形蒸気機関車|C60形]]・[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]とほぼ同一であった。</ref>。その後、[[1965年]]の東北本線[[盛岡駅|盛岡]]電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された[[国鉄20系客車|20系]]による[[ブルートレイン_(日本)|寝台特急]]「[[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]]」(5・6列車)<ref>なお、この「ゆうづる」にはヘッドマーク([[黒岩保美]]デザイン)が掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際にもっとも映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。</ref>は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり<ref>蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。</ref>、非電化のままの平 - 仙台間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。
 
もっとも、[[1963年]]に常磐線の平駅(現在の[[いわき駅|いわき]])以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用は[[国鉄EF80形電気機関車|EF80形]]によって置き換えられた。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平 - [[仙台駅|仙台]]間のみとなった<ref>電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部(7・8・9・11・19・20)は水戸機関区を経て[[仙台車両センター|仙台機関区]]に転属し、一時は東北本線の仙台 - [[青森駅|青森]]間の旅客列車を牽引することも検討され、同じ目的で42も小樽築港機関区から転属した。だが、[[保線]]側から本形式の入線による[[軌道 (鉄道)|軌道]]への悪影響が懸念されたことや、既に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]の量産が始まっていたこともあり、実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は仙台近郊や常磐線で一部の列車を牽引する以外に目立った運用も無いまま、[[1965年]]度中に全車[[廃車 (鉄道)|廃車]]となっている。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていた[[国鉄C60形蒸気機関車|C60形]]・[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]とほぼ同一であった。</ref>。その後、[[1965年]]の東北本線[[盛岡駅|盛岡]]電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された[[国鉄20系客車|20系]]による[[ブルートレイン_(日本)|寝台特急]]「[[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]]」(5・6列車)<ref>なお、この「ゆうづる」にはヘッドマーク([[黒岩保美]]デザイン)が掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際にもっとも映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。</ref>は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり<ref>蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。</ref>、非電化のままの平 - 仙台間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。
新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、現車13両、換算41両、つまり総重量410tと比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいた[[ダイヤグラム|ダイヤ編成]]では特に問題なく運用可能なはずのものであった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれも決して良好とは言い難いコンディションであった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150kmを無停車のまま2時間15分(上り:[[表定速度]]約67km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の1965年9月に[[品川運転所|品川客車区]]配置の20系予備車を連ねた15両編成<ref>上野方よりカニ21-ナハネ20-ナロ20-ナハネフ23-ナロネ21-ナロネ21-ナロネ21-ナシ20-ナハネ21-ナロネ21-ナハネ20-ナハネ20-ナハネ20-ナハネ20-ナハネフ23の15両。換算39.5両で、平 - 仙台間は22号機が牽引した。</ref>を用い、[[田端操車場]]と[[青森駅|青森]]の間で本運用に準じたダイヤでの[[試運転]]が実施された。この試運転の結果、通常使用の石炭<ref>発[[熱量]]は約6,500kcal/h。夕張・常磐・筑豊など各産地の異なるグレードの[[石炭]]を各機関区でブレンドしたもの。</ref>では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用([[蒸気機関車|SL]][[甲組 (鉄道)|甲組]] [[仕業]]番号1)に限り、発熱量8,000kcal/hの甲種[[練炭]]<ref>[[北海道]][[夕張炭鉱|夕張]]産の、高[[カロリー]]かつ排煙の少ない良質[[粉炭]]と[[ピッチ (樹脂)|ピッチ]]を混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)[[豆炭]]と呼ばれた。</ref>限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの[[余裕時分]]を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。
 
その後、[[1965年]]の東北本線[[盛岡駅|盛岡]]電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された[[国鉄20系客車|20系]]による[[ブルートレイン_(日本)|寝台特急]]「[[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]]」(5・6列車)は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり<!--蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。-->、非電化のままの平 - 仙台間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。
こうして老朽化した本形式を用いて限界ぎりぎりの運用を実施した「ゆうづる」も、運転開始から2年後の[[1967年]]10月1日には同区間の電化完成<ref>電化工事そのものの完成は同年7月30日であり、客車急行や一部普通列車は、順次、[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]の牽引となり、特急「ゆうづる」も、下り5列車が8月20日よりED75形の牽引に切り替えられ、上り6列車牽引の本形式は203列車で平から仙台へ[[回送|送り込む]]ように変更された。だが、9月中旬に線内で起こった土砂崩れの影響で、電化に伴う新線切り替え区間が不通となったため、やむなく非電化の在来線に戻して列車運行を実施、この関係で「ゆうづる」は復旧作業中の約1週間にわたって全列車が本形式での牽引となった。その後、下り5列車はED75形牽引に戻ったが、ダイヤ改正前の9月30日まで上り6列車は本形式による牽引が維持された。</ref>で[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]の牽引に切り替えられた。その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好であった23・37・46 - 48の5両が呉線を担当する糸崎機関区へ転属、不調気味の10・22・24・38・39・45の6両が1967年11月24日に除籍、[[解体]]となった。保存が検討された本形式ラストナンバーの49号機は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、[[1968年]]6月13日に除籍、解体処分に付されている。
 
なお、この「ゆうづる」には[[黒岩保美]]デザインのヘッドマークが掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際にもっとも映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。
 
新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、現車13両、換算41両、つまり総重量410tと比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいた[[ダイヤグラム|ダイヤ編成]]では特に問題なく運用可能はずのものであった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれもコンディションが決して良好とは言い難いコンディションであった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150kmを無停車のまま2時間15分(上り:[[表定速度]]約67km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の1965年9月に[[品川運転所|品川客車区]]配置の20系予備車を連ねた15両編成<ref>上野方よりカニ21-ナハネ20-ナロ20-ナハネフ23-ナロネ21-ナロネ21-ナロネ21-ナシ20-ナハネ21-ナロネ21-ナハネ20-ナハネ20-ナハネ20-ナハネ20-ナハネフ23の15両。換算39.5両で、平 - 仙台間は22号機が牽引した。</ref>を用い、[[田端操車場]]と[[青森駅|青森]]の間で本運用に準じたダイヤでの[[試運転]]が実施された。この試運転の結果、通常使用の石炭<ref>発[[熱量]]約6,500kcal/hで、夕張・常磐・筑豊など各産地の異なるグレードの[[石炭]]を各機関区でブレンドした通常使用。</ref>石炭では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用([[蒸気機関車|SL]][[甲組 (鉄道)|甲組]] [[仕業]]番号1)に限り、発熱量8,000kcal/hの甲種[[練炭]]<ref>[[北海道]][[夕張炭鉱|夕張]]産の、高[[カロリー]]かつ排煙の少ない良質[[粉炭]]と[[ピッチ (樹脂)|ピッチ]]を混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)[[豆炭]]と呼ばれた。<発熱量8,000kcal/ref>hの甲種[[練炭]]限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの[[余裕時分]]を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。
 
こうして老朽化した本形式を用いて限界ぎりぎりの運用を実施した「ゆうづる」も、運転開始から2年後の[[1967年]]10月1日には同区間の電化完成<ref>で[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]の牽引に切り替えられた。電化工事そのものの完成は同年7月30日であり、客車急行や一部普通列車は、順次、[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]の牽引となり、特急「ゆうづる」も、下り5列車が8月20日よりED75形の牽引に切り替えられ、上り6列車牽引の本形式は203列車で平から仙台へ[[回送|送り込む]]ように変更された。だが、9月中旬に線内で起こった土砂崩れの影響で、電化に伴う新線切り替え区間が不通となったため、やむなく非電化の在来線に戻して列車運行を実施、この関係で「ゆうづる」は復旧作業中の約1週間にわたって全列車が本形式での牽引となった。その後、下り5列車はED75形牽引に戻ったが、ダイヤ改正前の9月30日まで上り6列車は本形式による牽引が維持された。</ref>で[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]の牽引に切り替えられた。その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好であった23・37・46 - 48の5両が呉線を担当する糸崎機関区へ転属、不調気味の10・22・24・38・39・45の6両が1967年11月24日に除籍、[[解体]]となった。保存が検討された本形式ラストナンバーの49号機は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、[[1968年]]6月13日に除籍、解体処分に付されている
 
その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好な23・37・46 - 48の5両が呉線を担当する糸崎機関区へ転属、不調気味の10・22・24・38・39・45の6両が1967年11月24日に除籍、[[解体]]となった。保存が検討された本形式ラストナンバーの49号機は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、[[1968年]]6月13日に除籍、解体処分に付されている。
 
=== 函館本線 ===
[[File:JRN-C62-SteamLoco.jpg|thumb|240px|rught|急行ニセコを牽引するC62形重連(1971年)]]
東海道・山陽本線の電化が進展しつつあった[[1950年代]]後半、[[北海道]]の[[函館本線]]で運行されていた対本州連絡急行は、特に急勾配と急曲線が連続する[[長万部駅|長万部]] - [[小樽駅|小樽]]間の通称・山線区間での[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]重連運用<ref>同形式はストーカー非装備であったことから[[火夫|機関助士]]2人による人力投炭を強いられた。</ref>と、[[函館駅|函館]] - 長万部間の通称・海線区間での高速運転<ref>振動と各回転部の異常磨耗で検修陣に負担がかかっていた。</ref>により乗務・検修の双方に多大な負担を強いていた。そこでそれら前者諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めつつあったC62を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず[[1956年]]9月に3号機が梅小路から発送され、[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された。その結果良好で、破格の大形機故に危惧されていた[[軌道 (鉄道)|軌道]]負担増大の問題についても、[[保線]]側で充分対応可能な範囲に収まストーカー非装備だったことから、翌[[1957年火夫|機関助士]]の初頭2人好調機は山陽本線よる人力投炭担当する各区へ配置し、その選に漏強いられた不調気味の余剰車から函館本線へ転用する方針<ref>当時。後者山陽本線の寝台特急牽引で本形式の限界性能発揮を必要振動する運用が継続しており、好調機は可能な限りそちら各回転部運用へ優先的に充当する必要があった。</ref>の下、宮原機関区所属異常磨耗保留車となっていた2<ref>東海道時代検修陣[[除煙板]]につばめマークを取り付け、人気を集めた。</ref>・30・42号機と、梅小路機関区で余剰となっていた27・32・44号機の6両負担選出され、[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]ら流用されかっていた[[戦時設計]]による粗製濫造[[ボイラー]]の新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、[[小樽運転所|小樽築港機関区]]へ転属の手続きがとられた。
 
そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めつつあったC62形を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず[[1956年]]9月に3号機が梅小路から発送され、[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された。その結果は良好で、破格の大形機故に危惧されていた[[軌道 (鉄道)|軌道]]負担増大の問題についても、[[保線]]側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌[[1957年]]の初頭に好調機は山陽本線を担当する各区へ配置し、その選に漏れた不調気味の余剰車から函館本線へ転用する方針<ref>当時は山陽本線の寝台特急牽引で本形式の限界性能発揮を必要とする運用が継続しており、好調機は可能な限りそちらの運用へ優先的に充当する必要があった。</ref>の下、宮原機関区所属で保留車となっていた、東海道時代に[[除煙板]]につばめマークを取り付け人気を集めた2号車、および30・42号機と、梅小路機関区で余剰となっていた27・32・44号機の6両が選出され、[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]から流用されていた[[戦時設計]]による粗製濫造[[ボイラー]]の新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、[[小樽運転所|小樽築港機関区]]へ転属の手続きがとられた。
小樽築港機関区への配属後の本形式は、[[函館本線]]で「[[オホーツク (列車)|大雪]]」、「[[まりも (列車)|まりも]]」、[[ニセコライナー|「ていね」→「ニセコ」]]などの急行列車牽引に使用され、もっとも過酷な使用条件であった山線区間の急行運用は[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]による[[重連]]からC62形重連、または前部[[補機]]D51形と本務機C62形による重連に変更された<ref>この運用では、つばめマーク付のC62 2が重連の先頭に立つことが多かったが、これは[[鉄道ファン|ファン]]サービスが目的ではなく、前補機は[[長万部駅|長万部]]でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためであった。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用することは、検修側、運用側の両者にとって望ましかったとされる。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。</ref>
 
<ref>また、函館本線の[[七飯駅|七飯]] - [[大沼駅|大沼]](旧:軍川)間については、[[1966年]]10月に下り線の上り勾配緩和のために建設された、通称:"'''藤城線'''"と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、[[渡島大野駅|渡島大野]]・[[仁山駅|仁山]](旧:仁山[[信号場]])を通る、[[仁山峠|仁山]]越えの従来線(現在、渡島大野・仁山を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっている)経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転されていた(ただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」については、通常期には、前述の通り減車されていたため、下り列車の仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引であった)。</ref>。
小樽築港機関区への配属後の本形式は、[[函館本線]]で「[[オホーツク (列車)|大雪]]」、「[[まりも (列車)|まりも]]」、[[ニセコライナー|「ていね」→「ニセコ」]]などの急行列車牽引に使用され、もっとも過酷な使用条件であった山線区間の急行運用は[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]による[[重連]]からC62形重連、または前部[[補機]]D51形と本務機C62形による重連に変更された<ref>この運用では、つばめマーク付のC62 2が重連の先頭に立つことが多かったが、これは[[鉄道ファン|ファン]]サービスが目的ではなく、前補機は[[長万部駅|長万部]]でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためであった。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用することは、検修側、運用側の両者にとって望ましかったとされる。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。</ref>
 
<ref>また、函館本線の[[七飯駅|七飯]] - [[大沼駅|大沼]](旧:軍川)間については、[[1966年]]10月に下り線の上り勾配緩和のために建設された、通称:"'''藤城線'''"と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、[[渡島大野駅|渡島大野]]・[[仁山駅|仁山]](旧:仁山[[信号場]])を通る、[[仁山峠|仁山]]越えの従来線(現在、渡島大野・仁山を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっている)経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転されていたただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」については、通常期には、前述の通り減車されていたため、下り列車の仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引であった)。</ref>
 
なお、42号機は、函館本線経由で函館 - 札幌間を結ぶC62牽引の昼行急行が「まりも」1往復のみとなった[[1963年]]10月のダイヤ改正時に、[[仙台機関区]]に転属となっている
 
[[1970年]]には好調故に本務機に多用され、走行キロ数が伸びていた32号機と44号機が[[ディーゼル機関車]]への置き換え計画実施まで1年を残して[[鉄道車両の検査|全検周期]]に到達、検査を実施するよりも期限未到達の余剰車を改造するほうが大幅に安価ということで、2両とも[[廃車 (鉄道)|廃車]]とし、代機として呉線電化で余剰となり、検査期限まで1年以上期間が残っていた、当時、糸崎機関区に所属の15・16号機を軸重軽減改造<ref>交換が必要な従台車は32・44号機からの廃車発生品を流用した。</ref>軸重軽減改造の上で転属させ、残りの1年間使用し、[[1971年]]末に[[廃車 (鉄道)|廃車]]となっている。
 
一時期は間合い運用で、[[函館駅|函館]] - [[札幌駅|札幌]]間の夜行[[準急列車|準急]]・急行[[北斗 (列車)|「たるまえ」→夜行急行「すずらん」]](いずれも[[室蘭本線]]・[[千歳線]]経由)の函館 - 長万部間や、函館 - [[網走駅|網走]]間(函館本線・[[石北本線]]経由)の夜行[[準急列車|準急]]・急行「[[オホーツク (列車)|石北]]」<ref>の小樽 - [[旭川駅|旭川]]間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の[[普通列車]]の一部も牽引した。なお、急行「石北」の前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「[[オホーツク (列車)|はまなす]]」。[[ヨン・サン・トオ|1968年10月のダイヤ改正]]以降の札幌 - 網走間の夜行急行「大雪6・6号」→ [[1978年]]10月のダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ [[1980年代]]中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→ [[2006年]]3月のダイヤ改正で臨時列車となった[[特別急行列車|夜行特急]]「[[オホーツク (列車)|オホーツク9・10号]]」の母体となった列車。</ref>の小樽 - [[旭川駅|旭川]]間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりなく、函館本線の[[普通列車]]の一部も牽引したある
 
最後まで重連運転の残った「ニセコ」も、[[1971年]]の7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]に置き換えられ、大幅にスピードアップされ、高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所用時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。
一時期は間合い運用で、[[函館駅|函館]] - [[札幌駅|札幌]]間の夜行[[準急列車|準急]]・急行[[北斗 (列車)|「たるまえ」→夜行急行「すずらん」]](いずれも[[室蘭本線]]・[[千歳線]]経由)の函館 - 長万部間や、函館 - [[網走駅|網走]]間(函館本線・[[石北本線]]経由)の夜行[[準急列車|準急]]・急行「[[オホーツク (列車)|石北]]」<ref>前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「[[オホーツク (列車)|はまなす]]」。[[ヨン・サン・トオ|1968年10月のダイヤ改正]]以降の札幌 - 網走間の夜行急行「大雪6・6号」→ [[1978年]]10月のダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ [[1980年代]]中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→ [[2006年]]3月のダイヤ改正で臨時列車となった[[特別急行列車|夜行特急]]「[[オホーツク (列車)|オホーツク9・10号]]」の母体となった列車。</ref>の小樽 - [[旭川駅|旭川]]間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の[[普通列車]]の一部も牽引した。
 
最後まで重連運転の残った「ニセコ」も、[[1971年]]の7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]に置き換えられ、大幅にスピードアップ<ref>高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所用時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。</ref>された。その後は小樽 - 長万部間の普通列車運用に充てられていたが、翌[[1972年]]秋に2号機は[[動態保存]]先の[[梅小路蒸気機関車館]]へ転属となり<ref>った。本来は現存最若番車を保存する方針であったが、ツバメマークによる人気から、C62形では1号機が現存していたにもかかわらず、2号機が選定された。</ref>、ほかに3号機が[[臨時列車]]用として残ったが他の同形機は廃車解体となった。その後、一時休車状態にあった3号機が[[1973年]]の一時期に函館本線の小樽- 長万部間の[[普通列車]]を牽引したことがあった。しかし、この3号機も函館本線の小樽 - 長万部間の完全無煙化により1973年10月末で休車となった上で間もなく廃車<ref>となった。正式な除籍は1976年3月末に実施された。</ref>となり、[[1976年]]から[[1986年]]秋まで、[[小樽市]]の北海道鉄道記念館(その後、小樽交通記念館を経て現在は[[小樽市総合博物館]])で[[静態保存]]となった。
 
=== その他 ===
以上のように本形式は優等列車を中心に第一線で華々しく活躍した本形式ではあるが、[[お召列車]]を牽引したことは一度もないまま終わっており、いる。特に[[東海道本線]]・[[山陽本線]]系統では、現場の信頼も極めて高かった[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]がその任務にあたった。そのため、お召し列車牽引機としての特別整備を実施された実績は存在しない。ただし、特急「つばめ」がお召し列車の先導列車となった際に、その牽引機がお召し列車牽引機に準じた特別整備を施されたケース(25・30号機)は存在している。
 
乗務員の間では、太いボイラーが運転台一杯に迫っていることに伴う狭さや、夏季の温度上昇など、運転台内部に余裕のあった[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]や[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]と比較すると、居住環境としては必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、本形式で採用された2軸従台車による高速安定性と振動の少なさ、自動給炭機による焚火労力の低減、D52形譲りの大形ボイラーと燃焼室がもたらした圧倒的な高出力による運転上の余裕など労働環境は好評価されている。
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[[File:C62.JPG|thumb|240px|right|C62 2「SLスチーム号」(2007年2月撮影)]]
 
トップナンバーである1号機は[[1967年]]7月14日の除籍後、保存を見越した<ref>梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定において、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形は当時この1号機が存在したため当初は当然に候補に挙げられていたが、2号機の人気には逆らえず、変更となった模様である。</ref>ためか広島機関区、次いで[[小郡機関区]]において長らく保管され続け、1976年3月、[[広島鉄道学園]](国鉄職員の研修施設)敷地内で[[静態保存]]されるとともに同年3月31日付で[[鉄道記念物#準鉄道記念物|準鉄道記念物]]に指定された。しかし[[国鉄民営化|国鉄改革]]の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、[[1994年]]に梅小路蒸気機関車館に移されており、標準では引掛け式となる[[尾灯|標識灯]]を端梁に埋め込むなど、山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施された姿を今に伝えている。
 
[[1972年]]10月に、鉄道100年を記念して設立された[[梅小路蒸気機関車館]]には2号機が動態保存されており、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]梅小路運転区に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初には[[京都駅|京都]] - [[姫路駅|姫路]]間で臨時列車「SL白鷺号」を定期的に何度か牽引している。しかし同機は、蒸気機関車館保存後の[[1974年]](昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場(現在の[[長野総合車両センター]])で全般検査が実施された後、「SL白鷺号」などの本線自力走行や、本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。このため法令上、構内展示走行のみ可能な状態である。梅小路蒸気機関車館においては他の動態保存機とともに「SLスチーム号」としての保存運転に使用されており、現在も動く同機の姿に接することができる。
 
なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定で、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形は当時1号機が存在したため当初は候補に挙げられていたが、2号機の人気には逆らえず、変更となった模様である。
[[File:C62 KYOTO.jpg|thumb|240px|right|京都駅1番線で機回し中のC62 2(1997年9月撮影)]]
[[1997年]][[9月11日]]午前10時、[[京都駅]]の新[[駅ビル]]落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはEF65の牽引にて回送されたが、その際1番線ホーム(現0番線ホーム)で[[機回し]]を行った。その間20分ほど。新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形がを展示されるという演出がなされた。
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[[File:C623 Express Niseko.JPG|急行ニセコ|thumb|240px|right|在りし日のC62ニセコ号(1994年)]]
{{Sound|JR hokkaidou c62 niseko c62 3 suhahu44 7 yoichi.ogg|[[C62 3]]牽引によるC62ニセコ号の走行音(スハフ44 7にて収録、上り9162列車)|(函館本線小樽 - 余市間、1990年9月1日)}}
また、[[国鉄分割民営化]]直前の1986年[[10月3日]]、[[小樽市]]の北海道鉄道記念館(現在の[[小樽市総合博物館]])に静態保存されていた3号機が旧[[手宮線]]経由で小樽築港機関区に運び込まれ、有火状態への仮復旧が行われた。[[1987年]]3月31日から同年4月1日にかけての[[国鉄分割民営化]]イベントへの仮復旧状態での参加の後、同年4月より[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]で徹底的な修繕が実施されて[[動態保存中の蒸気機関車|動態復元]]と車籍復帰が実施され、翌[[1988年]]から[[函館本線]][[小樽駅|小樽]] - [[倶知安駅|倶知安]]間で、[[臨時列車|臨時]][[快速列車|快速]]「'''[[C62ニセコ号]]'''」として復活運転を開始した。[[1990年]]に運行区間は小樽 - [[ニセコ駅|ニセコ]]間に拡大され、ニセコ駅には専用の[[転車台]]([[新得機関区]]に以前あったものを転用)も設置された。しかし、本機の運転を行っていた北海道鉄道文化協議会が全般検査費用の資金を確保できず、また走行に必要な費用の確保もままならなくなり、さらに[[1995年]]に軸受を[[焼きつき|焼損]]する事故まで発生、やむを得ず同年11月3日をもって運転終了となった。この後、北海道鉄道文化協議会は解散した。現在、JR北海道は再び蒸気機関車を復活させている<ref>おり、現在の運転はJR北海道自身で行っている。</ref>がただし、小型で汎用性が高く、運用コストの低廉な[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]での運転となっている。
 
3号機は、将来の復活の可能性に備え、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]に保管されることとなり、しばらくの間車籍を保持していたが、車両の状態や、C11形で行われているイベントの状況に鑑み、2000年に除籍され、[[静態保存]]に戻った。[[2009年]]2月、JR東日本による新たな蒸気機関車動態復元の調査の際に3号機がリストアップされたが、JR北海道は同機を譲渡せず、復活機は[[群馬県]][[伊勢崎市]]に保存されていたC61 20に決定した。2010年10月には、当機は準鉄道記念物に指定された。
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他に[[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]・[[交通科学博物館]]に26号機が静態保存されている。また、[[東京駅]][[丸の内]]側地下[[コンコース]]「動輪の広場」には15号機の[[動輪]]3組とメインロッド、それにサイドロッドが組み付けられた状態で保存展示されている。
 
また、日本の蒸気機関車最高速度記録保持機の17号機については[[名古屋市]][[千種区]]・[[東山公園 (名古屋市)|東山動植物園]]に長年に渡って保存されていたが、[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]]に[[2011年]]に開館予定の[[リニア・鉄道館]]での保存が[[東海旅客鉄道|JR東海]]により発表され、移設された<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000005597.pdf JR東海プレスリリース「JR東海博物館(仮称)における展示概要について 資料2」]</ref>。
 
以上のとおり、特徴的な形状で知られた[[汽車製造]]製グループの13両は1両も現存しない。この汽車製造製グループのラストナンバーにして、本形式のラストナンバーでもある49号機は、常磐線での[[さよなら運転]]後、保存を考慮してしばらく平機関区に保管されていたが、結局保存先が決まらず、時期的に、いわゆる[[SLブーム]]が社会現象となる直前の時期だったこともあり、そのまま[[1968年]]6月13日に関東支達42号により廃車・解体処分に付されてしまった。これは時期的に、いわゆる[[SLブーム]]が社会現象となる直前の時期に廃車されたが故の不運<ref>この49号を含め、汽車製造製グループは新造時より軽軸重仕様で竣工したものが多く、東海道・山陽本線系統ではなく東北・常磐線系統に配置され、比較的地味な運用に就いていたため、モニュメント性に欠けていた。</ref>であった。
 
== 特徴ある車両 ==
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: [[1954年]]12月に[[木曽川橋梁 (東海道本線)|東海道本線木曽川橋梁]]にて129km/hの[[狭軌]]蒸気機関車最高速度を達成。
; 23号機
: 平機関区に所属していたころに回転式火の粉止めの装備が検討され、煙突が短縮された。また本機は1965年から1967年にかけて平機関区に所属していたC62形12両の中では一番調子が良く、特急「ゆうづる」牽引に最も多く充てられた。1967年9月30日に運転された本形式による最後の定期特急列車、上り「ゆうづる」(6レ)の牽引担当したのもこの23号機であった。
; 25号機
: [[お召し列車]]先導列車用特別整備車([[1956年]][[11月2日]]下り「つばめ」牽引運転・お召し本務機C59 108号<ref>)。東海道本線のお召し列車としては最後の蒸気機関車牽引となった。</ref>)
; 26号機
: 名古屋機関区当時に浜松工場で運転台通風装置を試験的に取り付け。ボイラが運転台直近に迫るため室内が暑い事から環境改善を狙って機関士席足下に通気口を取り付けた。しかし外気とともにシンダも一緒に吸い込む事からあまり役に立たなかった。
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|C62 23||D52 23||1948年8月31日||3156
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|C62 24<ref>D52形2両の状態不良のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出した。乙缶と丙缶の2種類を利用。なお、乙缶、丙缶のいずれも戦時設計の低規格ボイラーである。のちに戦時製造の甲缶を含めて殆どのボイラーが鷹取工場などの国鉄工場で新製された甲缶に取り替えられた。</ref>||D52 106<br />D52 233||1948年9月24日||3157
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|C62 25||D52 226||1948年9月30日||3158
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=== フィクションの作品 ===
* [[松本零士]]作の漫画「[[銀河鉄道999]]」に、主役の銀河鉄道超特急999号の牽引機としてC62形が登場する。原作の漫画及び映画版では実車が存在した48号機であったが(松本零士が同機のプレートを保有していた)、テレビアニメ版では実物に敬意を表して架空の50号機になっている。アニメーションを制作するに当たって関係者が梅小路に保存されている2号機を取材し、動輪の動き方や蒸気の噴出の様子などを調査していったと言う。
* ゲームソフトメーカー、[[ハドソン]]の社名は、本形式の軸配置(ハドソン)に由来し、1988年の「C62ニセコ号」運転開始にあたって同社は大口のスポンサーとして名を連ねていた。また、同社が開発したNECホームエレクトロニクス社製家庭用ゲーム機([[PCエンジン]]・[[PC-FX]])向けチップセットには、「[[HuC62]]xx」(xxは2桁の数字)という型番が与えられていた。
* 「[[黄金勇者ゴルドラン]]」にはC62形から変形するアドベンジャーと呼ばれる勇者ロボットが登場する。ただし、ナンバープレートの表記はC-62である。