「フェルディナンド・カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス」の版間の差分

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フェルディナンド・カルロは[[1678年]]の義父の死後、自らが相続する予定だったグアスタッラ公爵領が[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]に占拠されたことに不満を持ち、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に接近した。1678年12月にはフランスに領地の一部[[カザーレ・モンフェッラート|カザーレ]]を売却している。さらに1681年にはフランスと協定を結び、6000[[リラ]]の年金と将軍の地位を与えられる代わりに、フランスによるイタリア遠征が開始された場合はこれに協力すると約束した。[[1681年]][[9月29日]]にフランス軍がカザーレに進駐すると、イタリア諸国のフェルディナンド・カルロに対する信望は地に落ちた。
 
フェルディナンド・カルロは[[スペイン継承戦争]]に際してもフランス側についたため、[[1701年]]に反フランス同盟軍はマントヴァ公爵領に攻め入った。公爵はカザーレに逃亡し、公爵夫人アンナ・イザベッラが夫の不在中に領国を摂政として治めた。[[1703年]]にアンナ・イザベッラが子供を産まないまま死去すると、フェルディナンド・カルロは[[1704年]]に[[ギーズ公|ギーズ家]]の一員であるエルブフ公シャルル3世([[:en:Charles III, Duke of Elbeuf|Charles III d'Elbeuf]])の娘シュザンヌ・アンリエット(1686年 - 1710年)と再婚したが、スザンヌとの間にも嫡子を授からなかった。フェルディナンド・カルロには愛妾達との間に少なくとも6人の子供がいた。
 
[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]はすでに1701年にフェルディナンド・カルロを反逆者であると宣言していたが、[[1706年]]にフランス軍が[[アルプス]]以北に退却すると、フェルディナンド・カルロの立場は極めて厳しくなった。1708年、彼はイタリアに持つ全ての領土を没収された。奪われた領土のうち、モンフェッラート公爵領は、すでにその半分を[[1631年]]より領有していた[[サヴォイア家]]の領土に併合された。また、マントヴァ公爵領は独立の地位を失い、ハプスブルク帝国の直接統治下に入った。フェルディナンド・カルロは地位を奪われたその年に亡くなった。