「依田信蕃」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 依田信蕃
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 死没 = [[天正]]11年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1583年]][[4月15日]])
{{武士/官位|[[常陸国|常陸]]介。右衛門佐}}▼
| 別名 =
{{武士/主君|[[武田信玄]]→[[武田勝頼]]→[[徳川家康]]}}▼
| 諡号 =
{{武士/氏族|[[依田氏]]([[蘆田氏]])}}▼
| 戒名 =
{{武士/父母|父:[[芦田信守]]}}▼
| 墓所 =
{{武士/兄弟|'''依田信蕃'''、[[依田信幸]]、芦田重方、依田信春、信慶?、妹([[松井宗直]]室)}}▼
{{武士/妻|[[跡部勝資]]の娘}}▼
| 幕府 =
{{武士/子|'''[[依田康国]]'''、[[依田康勝|康勝]](加藤康寛)}}▼
| 藩 =
| 特記事項 =
}}
'''依田 信蕃'''(よだ のぶしげ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。甲斐[[武田氏]]の家臣、後に[[徳川氏]]の家臣。
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天正11年(1583年)2月23日、北条方の[[大井行吉]]の信濃[[岩尾城]]を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。攻城三日目、焦れて先頭に立って督戦中に敵の銃撃を受け、その戦傷がもとで死去した。[[享年]]36。この時、弟の信幸も討ち死にしている。後に長男の松平(依田)康国が整備した[[蕃松院]]が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。
== 関連項目 ==
*[[依田氏]]
{{DEFAULTSORT:よた のふしけ}}
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