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[[1932年]](昭和7年)からは[[十河信二]]に招かれ[[南満州鉄道]]経済調査会嘱託。[[満州国]]各地の都市計画に参画。1945年引き上げ後は函館市内の公園調査。のち郷里の新庄に帰郷。
 
優秀技術者を自由に任用しかつ地方に派遣、公共造園あるいは都市計画の人脈育成に最大の努力を払ったことで、事業を成功に導いた要因ともなった。宇部市[[ときわ公園|常盤公園]]、八幡市皿倉山、下関市火の山の風致計画、また東京の軍用跡地公園化の促進、首都の緑化推進など、造園家としての業績は著しい。大陸に渡ってから上海、青島の都市計画にも大きな功績をのこしたが、内地と同様に幾多の優秀な人材を呼集して満州国首都新京(長春)をはじめ、多くの都市の都市計画、公園計画にあたらしめた。
 
また、ゴルフ場の設計では先駆を成し、日本初のゴルフ場である学士会赤羽ゴルフ場(荒川河川敷、昭和5年)から外地では台湾高雄、満州鞍山、大連星々浦、奉天東陵寺などや福島土湯ゴルフ場などを手がけた。