[[ファイル:Harold bayeux tapestry.png|thumb|right|200px|バイユーのタペストリーに描かれた、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]]]
'''バイユーのタペストリー''' (([[フランス語]]: Tapisserie:Tapisserie de Bayeux) Bayeux)は、[[1066年]]の[[ノルマン・コンクエスト]] (([[ノルマンディー公]]ギヨーム2世[兼[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]]によるイングランド[[征服]]) )の物語が[[刺繍]]された、[[アマ (植物)|亜麻]] (([[リンネル]]) )製の長大な[[布]]である。長辺約70[[メートル|m]](現存63.6m)、短辺約0.5mの[[織物]]で、[[ヘイスティングズの戦い]]のくだりまでが現存している。[[11世紀]]の[[フランス]]とイングランドに係る歴史的遺物である。
長辺約 70 [[メートル|m]] (現存 63.6 m)、短辺約 0.5 mの[[織物]]で、[[ヘイスティングズの戦い]]のくだりまでが現存している。
[[11世紀]]の[[フランス]]と[[イングランド]]に係る歴史的遺物である。
フランスは[[ノルマンディー]]地方の[[コミューン|都市]][[バイユー]]にある[[バイユー大聖堂]] (([[w:Bayeux Cathedral|en]]) )に長く保管されていたが、[[近代]]の戦火による混乱の中を転々とした後、旧に復され、現在ではフランス[[国宝]]としてバイユー大聖堂内に設けられたバイユー・タペストリー美術館 ((''Musee de la Tapisserie de Bayeux'' <ref>バイユー・タペストリー美術館の[http://www.tapisserie-bayeux.fr/ 公式サイト]</ref>) )に保管・展示されている。
== 呼称 ==
[[ファイル:Bayeux tapestry laid work detail..jpg|thumb|right|200px|バイユーのタペストリー ((接写))]]
[[ファイル:Harold dead bayeux tapestry.png|thumb|right|200px|[[ヘイスティングズの戦い]]におけるハロルド2世の戦死<br />終盤の一場面。このうちのどの戦士がハロルド王2世であるかは同定されておらず、本作の謎の一つに数えられている。]]
[[フランス語]]で {{lang|fr|Tapisserie de Bayeux}} ((タピスリ・ド・バユー))。[[英語]]では {{lang|en|Bayeux Tapestry}} と呼ぶ。今では否定されつつある説であるが、王妃[[マティルダ・オブ・フランダース|マティルダ]]ゆかりと信じられてきた(後述)ことから、フランス語で{{lang|fr|Tapisserie de la reine Mathilde}}(タピスリ・ド・ラ・レーヌ・マティルド)、英語で{{lang|en|Tapestry of Queen Matilda}}、[[日本語]]で'''王妃マティルダのタペストリー'''とも呼ばれることがある。
今では否定されつつある説であるが、王妃[[マティルダ・オブ・フランダース|マティルダ]]にゆかりと信じられてきた (後述) ことから、フランス語で {{lang|fr|Tapisserie de la reine Mathilde}} (タピスリ・ド・ラ・レーヌ・マティルド)、英語で {{lang|en|Tapestry of Queen Matilda}}、[[日本語]]で'''王妃マティルダのタペストリー'''とも呼ばれることがある。
== 変遷 ==
以前は、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]の王妃[[マティルダ・オブ・フランダース|マティルダ]]が[[征服]]を記念して[[寄付|寄進]]したものとされ、「王妃マティルダのタペストリー」と呼ばれていたが、近年の研究ではウィリアム1世の異父弟であった[[ウード司教]] ((バイユー[[司教]]オドー、[[w:Odo of Bayeux|en]]) )が作らせたものと考えられている。理由としては、ウード配下の3人の司教がタペストリーに描かれていることと、バイユー大聖堂はウードが建立したものであり、当初からタペストリーが飾られていたと考えられるからである。
その後、[[18世紀]]までタペストリーの存在は忘れ去られており、[[フランス革命]]時には武器箱の覆いに使用されていたのを地元の[[弁護士]]が気づき、危うく喪失を免れている。[[1803年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[パリ]]に持ち帰ったが、これは[[イギリス]]侵攻の参考にするためであったという。その後、バイユーに戻されたが、[[第二次世界大戦]]中にはドイツ軍が接収。戦後、フランスに戻り、[[ルーブル美術館]]の地下に保管されていた。現在では故郷の大聖堂内に戻され、フランス国宝としてバイユー・タペストリー美術館(''Musee de la Tapisserie de Bayeux'')に保管・展示されている。
現在では故郷の大聖堂内に戻され、フランス国宝としてバイユー・タペストリー美術館 (''Musee de la Tapisserie de Bayeux'') に保管・展示されている。
== 織り込まれているもの ==<!--直接的と比喩的の両面-->
図柄には、人物623人、[[ウマ|馬]] (([[軍馬]]など) 202)202頭、[[イヌ|犬]] (([[猟犬]]など) 55)55頭、[[木|樹木]]49本、[[荷車]]1両、[[船]]41[[wikt:艘|艘]]、鳥獣など様々な生物500匹以上、[[ラテン文字]]約2,000字が確認される。
=== 勝者の記念物 ===
[[ファイル:Tapestry of bayeux10.jpg|thumb|right|200px|バイユーのタペストリーに描かれた、不吉な火の星出現の様子<br />右上に見えるのが問題の星で、その正体は[[ハレー彗星]]である。ISTI MIRANT STELLA (意: 彼らは星を眺めている) の文字が見える。]]<!--「不吉なる火の星」に係る-->
タペストリーに編み込まれた<!--「歴史を編む」と掛けてあります-->物語は全て、ノルマン・コンクエストの勝利者たる[[ノルマンディー公]]ギヨーム2世 ((ウィリアム1世、征服王) )の主張に基づいた内容である。それは、[[エドワード懺悔王]]がギヨーム2世を後継者とすべく[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド・ゴドウィンソン (]](ハロルド2世)]])を使者として送るところから始まり、[[ヘイスティングズの戦い]]におけるハロルド2世の[[戦死]] (■(右列に画像あり) )と敗残兵追撃の場面で終わっている。
タペストリーは最後の2場面が失われており、幕引きの部分を見ることはできない。約 6.4 m (4m(約 7 [[ヤード|yd]]) )はあったとされるこの欠損部分はバイユーのタペストリーを巡る謎の一つとなっているが、歴史的経緯からの推測で、ウィルアム1世の[[戴冠式]]の様子が描かれていたに違いないと考えられている<ref>{{cite book|last=Messant|first=Jan|title=Bayeux Tapestry Embroiderers' Story|publisher=Madeira Threads (UK) Ltd|location=Thirsk, UK|date=1999|pages=112|isbn=0951634852 978-0951634851|accessdate=18 March 2009}}</ref>。 ■[[#ギャラリー]]の節に画像あり。
=== 不吉なる火の星 ===
また、ハロルド2世がイングランド王に即位して間も無い頃に、不吉な「火の星」、すなわち、大きな[[彗星]]の出現があったことも描き込まれている。[[1066年]]3月に現れて時の王とその配下たちを怯えさせたこの天体が、[[近代|近現代]]の[[科学]]で言う[[ハレー彗星]]であったことが、[[18世紀]]に判明した (([[CF#cf|''cf.'']] [[ハレー彗星#古代の出現]]))。 ■右列に画像あり。
== ギャラリー ==
== 関連項目 ==
* [[1 E1 m]] : 長さの比較。記載内容は「70 m: 70m:バイユーのタペストリーの長辺の長さ ((現存は63.6 m)6m)」
* [[ハレー彗星]]
* [[バイユー]] - [[バイユー大聖堂]] (([[w:Bayeux Cathedral|en]]))
{{DEFAULTSORT:はいゆのたへすとり}}
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