「李勝」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
WikitanvirBot (会話 | 投稿記録) |
|||
7行目:
李勝は若いころに都に遊学し、風雅で才智があると評判があった。[[曹爽]]や[[夏侯玄]]らと親しくつきあい、のちに「四聡八達」というグループの一員になるが、軽薄浮華を理由に[[曹叡]](明帝)に官吏を解任されることになる。明帝が亡くなり[[曹芳]](斉王)の補佐として曹爽が政権を担当するようになると起用され、[[洛陽]]県令となる。[[244年]]、曹爽と夏侯玄が蜀征伐を計画すると、李勝もそれに賛同し、征西将軍である夏侯玄の長史となるが、大敗を喫する。そのため、[[司馬懿]]からは快く思われなかった。
滎陽太守、[[河南]]尹を歴任していずれも治績を挙げた。河南尹としての仕事ぶりは、前任者の[[劉靖]]が法に厳格であったのに対し、法を緩めることにより、一時的に名声を得た、と評されている。河南尹の職にあって一年後に、凶兆が勃発している。まもなく[[荊州]][[刺史]]に任命される。
{{DEFAULTSORT:り しよう}}
|