「アブハジア紛争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: pt:Conflito georgiano-abecásio
Was a bee (会話 | 投稿記録)
m wikify
2行目:
 
== 経過 ==
[[1989年]]、独立グルジアへのアブハジアの統合が、グルジアの民族主義者たちによって声高に主張されていた。多くの[[アブハズ人]]たちは、新たな「グルジア化」につながるとの考えからこれに反対し、その代わりに、独立の共和国としてのアブハジアの建設を考え始めた。[[7月16日]]、大学の学生の受け入れをめぐって、[[スフミ]][[暴動]]が起こった。このとき、16人が死亡し、137人が負傷したと言われている。暴動は数日間続いた後、[[ソビエト軍]]によって鎮圧された。
 
[[1991年]][[4月9日]]、グルジアが独立を宣言。[[1992年]][[2月21日]]、グルジアの軍事評議会は、ソビエト連邦期の[[憲法]]を廃止し、[[1921年]]に制定された[[グルジア民主主義共和国]]の憲法を復活させることを宣言。これを、アブハズ人たちは、[[自治権]]の廃止ととらえた。
 
1992年[[7月23日]]、アブハジア自治政府が独立を宣言したが、国際的な承認は得られなかったため、グルジア政府は3000人の部隊をアブハジアに送り、スフミにおいて、アブハジアの分離主義武装グループとのあいだで激しい戦闘が起こった。1週間の戦闘で双方に多くの犠牲者が出て、グルジア政府はアブハジア自治政府を廃した。アブハジア側の敗北の後、[[北コーカサス]]の諸共和国からの[[義勇軍]]がアブハジアの分離主義グループに合流し、再びグルジア政府軍との交戦が始まった。
 
1992年9月、反乱軍の攻勢によって、グルジア軍は劣勢に立った。[[エドゥアルド・シェワルナゼ|シェワルナゼ]]政権は、アブハジアの分離主義者に対して密かに軍事的な支援を行っているとしてロシアを非難した。1992年末、反乱軍がスフミ以西のアブハジアの大部分を掌握した。「[[民族浄化]]」(ethnic cleansing)が双方に起こり、この段階で約3000人が殺されたとされる。
 
[[1993年]]7月、アブハジア軍は、スフミを管理していたグルジア軍に対する攻撃に出た。町は包囲され、シェワルナゼも町中に[[幽閉]]される事態となった。[[9月27日]]、スフミはアブハジア軍の手に落ちた。新たに大統領に指名されて間もないシェワルナゼはこのとき、何事が起ころうともスフミに留まると宣言していたが、滞在していたホテルが狙撃手によって攻撃され、[[ロシア海軍]]に助けられてスフミから脱出した。
 
1993年10月、[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]はアブハジアの軍事行動、民族浄化を非難。