「荘献世子」の版間の差分

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2歳で[[世子]]に冊立され、10歳で恵慶宮洪氏と結婚した。[[少論派]]の学者たちから学問を学び、朝廷を掌握した[[老論派]]と対立した。[[1749年]]、英祖を代理して政務を処理するようになると、老論は[[貞純王后]](英祖の妃)とともに英祖に讒言し、世子を陥れた。英祖との葛藤で荘献世子は精神を病むようになったと「恨中録」(恵慶宮洪氏の随筆)には記録されている。
 
[[1762年]]、老論派が糸を引いた羅景彦が世子の非行を英祖に奏上した。英祖は羅景彦を死刑に処する一方、世子を廃して[[米櫃|米びつ]]の中に閉じこめ、世子は8日後に飢死した([[士禍|辛壬士禍]])。後に英祖はこれを悔やんで「思悼」と[[諡|追諡]]し、[[1777年]]には正祖が「荘献」と追尊した。また現在の[[ソウル特別市|ソウル市]][[東大門区]]の梨峰山にあった墓を[[水原市|水原]]に移した。[[1899年]]、玄孫である[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が「'''荘祖'''(チャンジョ)」の[[廟号]]と「懿皇帝」の[[諡号]]を追尊した。
==家族==
*獻敬王后 ([[恵慶宮洪氏]]1735年 - 1815年)