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英祖の二男[[荘献世子]]と[[恵慶宮洪氏]]の間の第二男として生まれ、[[1759年]]、8歳で王世孫に冊立される。1762年[[辛壬士禍]](辛壬の獄)を批判した父荘献世子が[[老論派]]の陰謀で悲劇的に死んだ後、英祖の長男[[孝章世子]]の養子となる。その理由は老論派の諸臣が 「罪人の息子は王になれない」と主張したからである。[[1775年]]より代理聴政をはじめ、翌年英祖が崩御した後、25歳で即位した。正祖は即位式に集まった人々に「余は'''荘献世子の息子'''である」と宣言した。
 
即位とともにそれまで心に秘めていた父の復讐を企てる一方で、能力ある人物を積極的に登用し、老論派を牽制できるだけの親衛勢力を集めることに心を砕いた。特に王世孫時代より自らの警護にあたってきた[[洪国栄]]に全幅の信頼を置き、宮城の護衛にあたらせたが、洪国栄は正祖の信頼を背に、いわゆる[[勢道政治]]を行い、行き過ぎた権力独占に動揺した正祖は洪国栄に退任を勧告することとなった。洪国栄は自身の勢力を維持するために計画した孝懿王后[[毒殺]]が発覚し、故郷へ追放となった。
 
父の死を招いた仇であり、与党でもあった老論派を極度に嫌悪した正祖は、封建的特権を弱体化し中央政府の地方統制力を高め、王権を強化するための政治・経済改革に着手した。英祖が生涯の課題とし、基本政策とした[[蕩平策]]を継承し、党争を避けるよう努力し、外戚勢力をはじめとする既得権勢力、特に老論勢力を排除、弱体化し、親政体制の構築に努力した。