「西園寺姞子」の版間の差分

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[[仁治]]3年([[1242年]])1月の後嵯峨天皇の即位を受けて、6月に急遽18歳にして同天皇の[[女御]]となり、その2ヵ月後に[[中宮]]に冊立された。4年後、後嵯峨天皇が姞子所生の後深草天皇に[[譲位]]して[[太上天皇|上皇]]となったのを受けて、[[宝治]]2年([[1246年]])6月に院号[[宣下]]を受けて「大宮院」の称号を与えられた。
 
後嵯峨上皇(後に[[法皇]])とは夫婦仲が良く6名の子女に恵まれたが、[[文永]]9年([[1272年]])に夫に先立たれたのを機に[[出家]]した。法皇の遺産はその遺詔によって彼女と[[円助法親王]](後嵯峨院の庶長子)が処分することとなり、彼女や子女に遺産が分配されることになったが、遺詔の中に[[鳥羽殿離宮]]や[[六勝寺]]を次の[[治天の君]]に与えるとだけ書かれて具体的な選任は[[鎌倉幕府]]に一任されていた。困惑した幕府は姞子に後嵯峨院の真意について質すこととした。これに対して姞子は亀山上皇を推挙する意向であると回答し、幕府はそれに従って亀山上皇に次の治天の君を要請した。姞子は当時の[[後宇多天皇]]が亀山上皇の実子であり、父親の亀山上皇が治天の君として[[院政]]を行う事が妥当とする趣旨による回答であったが、治天の君が[[皇位継承]]における決定権を有したために結果的に亀山上皇の子孫が皇位を継承する可能性が確実となり、これに亀山上皇の兄である後深草上皇が反発して円助法親王と亀山上皇の策動を疑い、鎌倉幕府に対して自分の子への皇位継承を要望した。この事態に困惑した幕府は後深草上皇の子・[[熈仁親王]](後の[[伏見天皇]])を[[皇太子]]に立てて、皇位の[[両統迭立]]のきっかけとなった。
 
こうした周囲の混乱を横目に2代の天皇の[[国母]]となった姞子は、実家である[[西園寺家]]の支援もあり内外の崇敬を得た。『[[増鏡]]』には[[弘安]]8年([[1285年]])に彼女が開いた母・貞子([[准后]])の九十賀(90歳の祝賀)の盛大な様子が描かれている。