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'''柴田 勝政'''(しばた かつまさ、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])- 没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国]]・[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[佐久間盛次]]の三男。[[佐久間盛政]]と[[佐久間安政]]の弟で[[佐久間勝之]]の兄。佐久間勝政ともいう。通称は三左衛門。妻は[[日根野高吉]]の妹。息子に、[[柴田勝重]]、[[柴田勝次]](『[[寛政重修諸家譜]]』)。[[越前国|越前]][[勝山城 (越前国)|勝山城]]主であり当時は勝安と名乗っていた。
 
尾張出身。兄と共に[[織田信長]]に仕え、[[柴田勝家]]の北陸平定軍に属した。武勇に優れ、[[加賀国]]の[[一向一揆]]平定で戦功を挙げたため、勝家に気に入られてその[[養子]]となり、柴田姓を名乗ることを許された。同じく勝家の養子であった[[柴田勝豊]]とは仲が悪く、常に対立していた。勝家も勝政を次第に重用して勝豊を軽視するようになり、それが[[天正]]11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]での勝豊の裏切りにつながったと言われている。
 
一説には賤ヶ岳の戦いで撤退中、羽柴軍の追撃を受け、羽柴秀吉の小姓[[脇坂安治|脇坂甚内]]に討たれ敗死したとされており、『寛政重修諸家譜』や『[[藩翰譜]]』にも「討死す」とあるが、遺骸が収容された記録がないことから、生存説が取りざたされ、賤ヶ岳の戦いの後に[[豊臣秀吉|秀吉]]から罪を許されて、[[金森長近]]の家臣となった、また四国に落ち延びたとも伝わる。