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'''佐久間勝親'''(さくまかつちか、[[寛文]]9年([[1669年]]) - [[元禄]]4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1691年]][[1月29日]]))は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[信濃国|信濃]][[長沼藩]]4代藩主。[[佐久間氏]]の一族。[[秋月種信]]の五男。母は[[松浦隆信 (宗陽)|松浦隆信]]の娘。正室は[[佐久間勝豊]]の娘。子は娘([[坂本直規]]正室)。勝豊の婿養子となり、長沼藩主を継いだ。初め勝親、後に'''勝茲'''(かつちか)。織部。
 
[[貞享]]2年([[1685年]])、養父勝豊の死去により17歳で長沼藩1万石の家督を相続した。[[元禄]]元年([[1688年]])、20歳のとき五代将軍[[徳川綱吉]]より側[[小姓]]を命ぜられるも、病と称して辞退。これが仮病であったことが幕府に知られたため、不敬なりとして改易され、身柄は[[丹羽長次]]の預かりとなり、藩は断絶した。元禄4年(1691年)23歳で死去。戒名は「大通院智岩浄勝居士」、滋賀県高島市の[[幡岳寺]]に位牌も現存している。遺骸は福島県二本松市にある龍泉寺に埋葬され、お墓が現存している。
 
{{先代次代|[[長沼藩|長沼藩4代藩主]]|1685年~1688年|[[佐久間勝豊]]|断絶}}