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== 略歴 ==
[[東京都]][[渋谷区]]出身。[[早稲田大学]]法学部在学中の1968年、音楽サークル“グリー・クラブ”の先輩[[三浦光紀]]のキング・レコード就職に伴い、私設アシスタントとして音楽業界に身を投じる。無給だったため、1970年頃、[[小室等]]の事務所に預けられ、[[六文銭 (音楽ユニット)|六文銭]]のマネージメントを担当する。
 
1970年、[[中津川フォーク・ジャンボリー]]の実行委員となり、東京のアーティストのブッキングを担当する。
 
1971年、早稲田同窓の[[後藤由多加]]に誘われ、[[ユイ音楽工房]]の設立に参加する。同事務所では、[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]を担当する。「[[神田川 (シングル)|神田川]]」がディレクターとして最初に成功した楽曲となる。しかし、日本のフォークが嫌になり、[[大森昭男]]のONアソシエイツに移籍する。
 
CM音楽制作にあたり、三浦から聴かされていた[[大滝詠一]]を大森に推薦する。大滝がコーラスに連れてきた[[シュガー・ベイブ]]に注目し、シュガー・ベイブと[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]のマネージメントとプロモーションをする会社“アワ・ハウス”を興す。しかし、シュガー・ベイブが突然解散することになり、[[山下達郎]]・[[大貫妙子]]をソロ・デビューさせる。山下“[[CIRCUS TOWN]]”(76年)、大貫“グレイスカイズ”(76年)、“サンシャワー”(77年)を制作するも、資金が底をつき“アワ・ハウス”は倒産する。その後、新宿ロフトの“ロフト・レーベル”に協力しているときに知り合った[[川原伸司]]から、[[杉真理]]のバックコーラスをしていた[[竹内まりや]]を紹介される。竹内まりやの“[[BEGINNING]]”“BEGINNING”(78年)、“[[UNIVERSITY“UNIVERSITY STREET]]”STREET”(79年)、“LOVE SONGS”(80年)のプロデュースを担当する。
 
1980年代に入ると、[[細野晴臣]]が主宰する[[ノン・スタンダード]]・レーベルでディレクターとして活動し、[[小西康陽]]率いる[[ピチカート・ファイヴ]]や[[鈴木惣一朗]]率いる[[ワールドスタンダード]]らを輩出。
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現在はフリーとして活動している。
 
== 関連項目 ==
*[[音楽プロデューサー]]
 
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