「ウンベルト・エーコ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
LucienBOT (会話 | 投稿記録)
m r2.6.4) (ロボットによる 追加: ext:Umberto Eco
Trinity50 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
31行目:
 
== 経歴 ==
イタリア北部のピエモンテ州アレッサンドリアに生まれる。父のジュリオは会計士だったが後に政府から3つの戦争へ招聘された。 [[第二次世界大戦]]中、ウンベルトと母のジョヴァンナはピエモンテの山腹へ避難した。[[サレジオ会]]の教育を受けたため、作品中やインタビューなどでサレジオ会やその創設者について言及している<ref>[http://www.sdb.ph/sdb4/N7/20040644ENG.doc Don Bosco in Umberto Eco's latest book] N7: News publication for the Salesian community p.4 2004年6月</ref>。彼のファミリーネームは、ex caelis oblatus (ラテン語で「天からの贈り物」の意)の頭文字を取ったものと一般に信じられている。これは孤児であった彼の祖父が市の職員から名付けられたものである<ref>[http://www.themodernword.com/eco/eco_biography.html A Short Biography of Umberto Eco] 2004年3月22日</ref>。
 
13人兄弟だった父に法律家になるよう強く勧められたが、中世哲学や文学を学ぼうと[[トリノ大学]]に入学。[[トマス・アクィナス]]の美論についての論文を書き、1954年に学位を取得。この時期に信仰が揺らぎ[[カトリック教会]]から距離を置いた<ref>[http://www.kirjasto.sci.fi/ueco.htm Umberto Eco (1932-) - Pseudonym: Dedalus]2003年</ref> 。その後に国営放送局の[[イタリア放送協会]](RAI)でドキュメンタリー番組のプロデューサーとして勤務した後、トリノ大学でも講義を行った(1956–64)。前衛画家、音楽家、[[63年グループ]]で親しくなった作家の団体は、この先の作家人生における重要で影響力のある要素となった。博士論文の延長である初の自著Il problema estetico in San Tommasoを1956年に出版してからこれは特に顕著となった。これはまた母校での講義活動を始めた頃にも著しくみられる。