「松平昌親」の版間の差分
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==== 再度後継問題 ====
吉品には嗣子が無く、次代候補となるのは先代・昌勝と同じ兄の系統か、御家騒動の一部であった直竪系しかなかった。
吉品はこの双方を回避するため、[[元禄]]3年([[1690年]])、[[長州藩]]の第2代藩主[[毛利綱広]]の五男・[[松平昌方]](毛利元重、祖母が
宝永5年([[1708年]])、福井藩主の別邸・[[御泉水屋敷]](養浩館)を改築し、同時に西隣に新御泉水屋敷を建築、自らの隠居所とした。宝永7年([[1710年]])7月5日、家督を譲って隠居、福井藩邸を出て、吉江藩主時代からの江戸鳥越の抱屋敷に移った。8月5日には福井に帰国。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])9月12日、72歳で死去した。法名は探源院殿順譽和祥龍山大居士。吉品の菩提寺である福井市足羽の高照山[[瑞源寺]]([[臨済宗]][[妙心寺派]])は元々、吉江藩領にあった。山号は吉品の母親の高照院から由来している。のちの福井藩相続に伴い、福井藩領の名勝[[足羽山]]山麓に移され、山腹に吉品と高照院の墓が残る。現在は[[萩]]の寺として知られ、季節には観光客も多い。また[[福井城]]の御殿の一部が移築されて残っている。墓所の他、吉江藩のあった[[福井県]][[鯖江市]]吉江の吉江神社に祀られている。
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