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'''後藤 三右衛門'''(ごとう さんえもん
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▲'''後藤 三右衛門'''(ごとう さんえもん)は、[[江戸時代]]後期の[[商人]]・[[幕臣]]。本名は'''光亨'''。
== 生涯 ==
[[後藤庄三郎]]家は[[慶長]]時代から[[徳川家康]]に仕え、[[金座]]や[[銀座 (歴史)|銀座]]を一手に支配した豪商である。現在でいえば造幣局を支配していた人物といってよい。商人ではあるが、早くから苗字帯刀を許されて武士の身分になっていた。
[[老中]]の[[水野忠邦]]による[[天保の改革]]が始まると、[[鳥居耀蔵]]や[[渋川敬直]]らと共に「水野三羽烏」の1人と称されて改革に協力した。忠邦の命令で[[天保通宝]]を鋳造したりしているが、この天保通宝は天保銭と後世に揶揄されるほど粗悪なものであったため、かえって経済の混乱や物価騰貴を招いた。さらに後藤は[[勘定奉行]]・[[印旛沼]]開拓責任者に栄進した鳥居と手を結んで不正を働き、天保通宝や印旛沼開拓などで不正な利益を上げたという。
改革の様々な不評をはじめ、特に[[上知令]]の反対の根強さから水野は[[天保]]14年([[1843年]])に失脚したが、後藤は鳥居と手を組んでいたために失脚を免れた。ところが天保15年([[1844年]])6月に水野が外国船問題などから復権を果たし、改革の過程で反対派に寝返った鳥居や後藤らに対する報復を始めようとすると、後藤は鳥居もろとも処分されることを恐れて鳥居に関する機密書類や裏情報を水野に提供した。これにより一旦は連座を免れたものの、水野の後任として老中首座となった[[阿部正弘]]は鳥居らの悪事を徹底的に暴くために後藤邸にも家宅捜索の手を伸ばした。その結果、2万両に及ぶ隠し金が発見され、さらに天保の改革時代における収賄なども暴かれてしまい、弘化2年(1845年)10月3日、斬首に処されたのである。墓所は[[東京都]][[江東区]]三好の[[雲光寺]]。
鳥居、渋川も失脚、それぞれ[[丸亀藩]]、[[臼杵藩]]に配流され、三羽烏は一掃された。
== 関連項目 ==
== 出典・後藤が登場するTV・書籍 ==
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