「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」の版間の差分

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== 概要 ==
ディアギレフの死([[1929年]]8月19日)後にいくつか見られたバレエ・リュス復活の計画は、同年10月24日以降の[[世界恐慌]]によってそのほとんどが中止に終わったが、[[1930年]]には[[パリ]]と[[ロンドン]]で「バレエ・リュス・ア・パリ」というガラ形式の公演が行われ、好評を博した。これをきっかけに、ロシア歌劇団を経営していた[[ヴァシリー・ド・バジル]]大佐と、モンテカルロ歌劇団バレエ芸術監督[[ルネ・ブルム]]<ref>[[レオン・ブルム]]の弟。ユダヤ系フランス人であり、1942年に[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ]]で最期を迎える(三浦雅士『バレエ入門』新書館、2000年、173ページ)。</ref>は[[1931年]]に、バレエ・リュス・ド・モンテカルロの結成を発表、翌[[1932年]]から公演が始まった。芸術監督には[[ジョージ・バランシン]]が任命されたが、まもなく[[レオニード・マシーン]]に変えられた。[[モンテカルロ歌劇場]]にはバレエ・リュスのオリジナルの衣装、美術の一部が残っており、これらを使用できたことは大きな強みであった。
 
バレエダンサーには、バレエ・リュス以来の[[アレクサンドラ・ダニロワ]]、[[アリシア・マルコワ]]、「三人の赤ん坊バレリーナ(ベイビー・バレリーナ)」と呼ばれた若いイリーナ・バローノワ(デビュー当時13歳)、[[タマーラ・トゥマーノワ]](同15歳)、[[タチアナ・リアブーシンスカ]](同14歳)、男性にはヴォイチコフスキー、リシーンらがいた。振付は、バランシンとマシーンが主としておこなった。諸作品の成功で非常な興行成績をおさめ、特に[[1933年]]以降は大成功をおさめた。しかし、[[1936年]]になって二つに分裂し、バジル大佐の率いるバレエ・リュス・ド・コロネル・ド・バジル、残りはブルムの率いるバレエ・リュス・ド・モンテカルロとなった。
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*「幻想交響楽」(1936年)
*「[[ロデオ (コープランド)|ロデオ]]」(1942年)
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==