「カール・ハウスホーファー」の版間の差分
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===ヒトラーとの出会い===
戦後は[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]にて大学教授資格を取得。ハウスホーファーは[[地政学]]の創始者の一人である。1919年にハウスホーファーは教え子として[[ルドルフ・ヘス]]と知り合い、1921年には[[アドルフ・ヒトラー]]と出会
===ナチス政権下===
ナチス党が政権に就いた[[1933年]]にはミュンヘン大学の正教授に就任した。[[1934年]]から[[1937年]]までドイツ学士院総裁を務め、この間、駐独大使館付武官であった[[大島浩]]とも接触してドイツと日本の政治的連携の確立に関与した。
[[1939年]]に[[
===死去===
第二次世界大戦期を通じて[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。[[ドナルド・ノートン]]はこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才」「(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後の[[ニュルンベルク裁判]]でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であった事などから見送られた<ref>シュパング、2001年、4p</ref>。
敗戦後の[[1946年]]に妻と心中した。ハウスホーファーはヒトラーの軍事拡張政策に責任ありと見なされており、これを嫌っての自殺らしいが、詳細は不明。服毒した上の[[切腹]]自殺であったと言われている。▼
▲敗戦後の[[1946年]]に妻と心中した。
==影響==
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;ハウスホーファー研究
*[[クリスティアン
*クリスティアン W シュパング、「日独関係におけるカール・ハウスホーファーの学説と人脈1909 - 1945」、中田潤博士訳、『現代史研究』、第46号(2000年12月)、35-52頁。
*Christian W. Spang, "Karl Haushofer Re-examined – Geopolitics as a Factor within Japanese-German Rapprochement in the Inter-War Years?", in: C. W. Spang, R.-H. Wippich (eds.), Japanese-German Relations, 1895-1945. War, Diplomacy and Public Opinion, London/New York: Routledge, 2006, pp. 139-157.
==脚注==
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== 関連項目 ==
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