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{{中華圏の人物
| 名前=王一亭
| 画像=[[File:Wang Yiting.jpg|200px]]
| 画像の説明=Who's Who in China 4th ed. (1931)
| 出生=[[1867年]][[12月4日]]<br/>([[清]][[同治]]6年11月13日)
| 死去=[[1938年]]([[民国紀元|民国]]27年)[[11月13日]]<br/>{{CHN1928}}[[上海市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[江蘇省]][[上海市|松江府上海県]][[浦東新区|浦東]]
| 出身地=
| 職業=書画家
| 簡体字={{lang|zh-hans|王一亭}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|王一亭}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Wáng Yìtíng}}
| 通用=
| 注音=
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| 和名=おう いってい
| 発音=ワン イーティン
| ラテン字=Wang I-t'ing
}}
'''王 一亭'''(おう いってい)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]に活躍した実業家・[[書画家]]・銀行家・政治家である。[[名]]は''''''だが[[字]]の'''一亭'''で知られる。[[号 (称号)|号]]は'''梅花館主'''、'''海雲楼主'''、'''白龍山人'''と称した。
 
== 事跡 ==
若い頃から商いを習い、商業的成功を収めた。[[中国同盟会]]に加入して、[[辛亥革命]]に資金的な援助を行った。書画熱が高じて[[任頤|任伯年]]に就いて絵を学ぶ。[[山水画]]は[[呉鎮]]に師法した。[[人物画]]、[[花鳥画]]、[[仏画]]に優れ晩年にはほとんど毎日仏像を画いた。[[呉昌碩]]とは師友となって親しく交わった。[[中国仏教協会]]執行委員兼常務委員に任ぜられ仏教学出版社の理事長、[[世界仏教居士林]]の副林長、林長を歴任。売画によって得られた所得の大部分は慈善事業に寄付した。梓園を建てそこに広く名画を蒐集したが、後に散逸した。著書に『白龍山人詩稿』・『王一亭書画集』がある。
=== 上海商業会での台頭と中国同盟会への参加 ===
13歳の時に、上海の慎余[[銭荘]]で徒弟となり、業務の合間に広方言館で外国語を学んだ。その後、商業界で着実に地歩を固め、海運業務の商店・天余号で経理にまで昇進した。
 
[[1906年]]([[光緒]]32年)に王一亭は上海予備立憲公会会董となり、翌年には、[[日清汽船]]上海支店でコンプラドール([[買弁]])となった。その後も日商大阪郵船のコンプラドール、さらには三井洋行が所有する上海製造絹糸社社長も務めている。このほかにも多方面に投資活動を行い、[[1909年]]([[宣統]]元年)に滬南商務総会総理に選出された。同年、上海商務総会議董、上海自治公所に任ぜられ、上海の地方自治事務に取り組んでいる。
 
[[1910年]](宣統2年)、王一亭は[[中国同盟会]]に加入し、同盟会上海分会機関財務科科長となる。さらに機関紙『民立報』の創刊を支援するなど同盟会への資金援助を展開した。[[武昌起義]]([[辛亥革命]])が勃発すると、王も[[陳其美]]らの蜂起に参加し、さらに商団を革命派に付かせる工作に従事している。上海軍政府が成立すると、交通部部長や農業部部長を歴任した。
 
=== 民国成立後の活動 ===
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]1年)4月、王一亭は[[黄興]]らと[[南京市|南京]]で拓殖学校を創設した。翌年、[[第二革命]](二次革命)で革命派が敗北すると、王はイギリス[[租界]]に逃れ、絵画に没頭している。[[1915年]](民国4年)、中国商業儲蓄銀行董事として復帰し、[[1917年]](民国6年)に同行[[役員 (会社)#董事長|董事長]]に昇進した。
 
[[1925年]](民国14年)夏、王一亭は、逝去した[[孫文]](孫中山)を葬る[[中山陵]]の図案選定顧問を務めた。[[1927年]](民国16年)冬、[[国民政府]]中央救災準備金保管委員会委員長となり、さらに振務委員会常務委員などに任ぜられている。
[[1932年]](民国21年)1月には、国難会議に招聘された。
 
[[1938年]](民国27年)11月13日、上海で死去。享年72(満70歳)。
 
=== 画家としての業績 ===
学徒の時代から書画熱が高じ、この頃に[[任頤|任伯年]]に就いて絵を学ぶ。[[山水画]]は[[呉鎮]]に師法した。[[人物画]]、[[花鳥画]]、[[仏画]]に優れ晩年にはほとんど毎日仏像を画いた。[[呉昌碩]]とは師友となって親しく交わった。また、上海昌明芸術専科学校校長にも任命されている。
 
若い頃から商いを習い、商業的成功を収めた。[[中国同盟会1929年]]に加入して、[[辛亥革命]]に資金的な援助を行った。書画熱が高じて[[任頤|任伯(民国18]]に就いて絵を学ぶ。[[山水画]]は[[呉鎮]]に師法した。[[人物画]])6月[[花鳥画]]、[[仏画]]に優れ晩年に王一亭ほとんど毎日仏像を画いた。[[呉昌碩太虚]]とはなって親しく交わった。上海で[[中国仏教会]]を設立し、王も同会の執行委員兼常務委員に任ぜられた。以後も仏教学出版社の理事長、[[世界仏教居士林]]の副林長、林長を歴任している。売画によって得られた所得の大部分は慈善事業に寄付した。梓園を建てそこに広く名画を蒐集したが、後に散逸した。著書に『白龍山人詩稿』・『王一亭書画集』がある。
 
== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 徐友春主編|title = 民国人物大辞典 増訂版|year = 2007|publisher = 河北人民出版社|isbn = 978-7-202-03014-1}}</span>
 
{{DEFAULTSORT: おう いつてい}}
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[[Category:中国の能書家]]
[[Category:中国の文人]]
[[Category:中国の実業家]]
[[Category:中国同盟会の人物]]
[[Category:上海出身の人物]]
[[Category:1867年生]]
[[Category:1938年没]]