削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
(会話 | 投稿記録)
4行目:
== 略歴 ==
初め駿河国の[[天台宗]]寺院[[四十九院]]で[[日興]]に師事して、天台教学を学んだが、のち[[日蓮]]に師事した。日蓮の没後は日興と不和となり、[[1288年]]([[正応]]元年)[[日浄]]とともに願主となって[[武蔵国]][[池上本門寺]]に祖師像を安置した。
その後の消息については不明であるが、一説に拠れば[[1295年]]([[永仁]]3年)海外布教を志し、[[樺太]]の[[本斗郡]][[本斗町]]阿幸から[[満洲]]に渡ったとも、蝦夷地で没したともいう。[[東北地方|東北]]や[[北海道]][[函館]]には、日持にまつわる伝説が残っている。
伝説によると、日持が北海道に渡ったとき、それまで見たことも無い魚が大漁に採れた。「法華の坊さん」が来たからということで、その魚を「[[ホッケ]]」と呼ぶようになったという。
また、[[第二次世界大戦]]では当時の[[満州]]の[[宣化区|宣化市]](現在の[[河北省]][[張家口市]]宣化区)において、日持の物とされる遺物が発見されたと報道された。なお、[[1989年]]に、[[東京大学]]と[[東北大学]]の研究者により科学測定を行った際、その遺品の年代は[[1300年]]プラスマイナス350年前後であろうと判明{{要出典|date=2009年12月}}している。なお、これについては贋作説もある。